生命宇宙の世界(9)

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みなさん、こんばんは。

 それを述べようとしなければ、それを知っている。
 それを述べようとしたら、それを知らない。

これは、
かつて聖アウグスティヌスが「時間」について表現したものです。

論理で語ることはできないけれど、
そのようなものを実は最初から知っている、ということを、
あえて表現すればこういう言になるのではないかと思います。

私たちは、全てのモノゴトを言葉で表現しようとする。
ということは、言葉で表現できないものは、
どうしても表現できないのか。

とりあえず、何かを見たり聞いたり触ったりすることを考えてみる。
具体的な方が良いので、例えばその対象は“リンゴ”とします。

そのリンゴを見たときの感覚。触ったときの感覚。
私たちは無意識に、その“生”の感覚の中から、
言葉にできるものだけを抽出しています。

「赤い」とか「硬い」とか。

その表現がそういう言葉になった時点で、
それ以外の感覚が切り捨てられてしまっていることに気づきますか。
リンゴには、「赤い」とか「硬い」といった、
言葉に置き換えられる表現にならない感覚もあるでしょう。

実は、科学というのは、
私たちがそれまで表現できなかった領域のものを、
私たちが表現できる領域に持ってくる作業です。

ここで、
“表現できない”ということと“知らない”ということは、
同義ではありません。
表現できなくても、私たちはそれを知っているから。

リンゴの持つ属性のうち、
言葉で表現できるものは「赤い」とか「硬い」などの、
言葉として既存しているものだけですが、
それ以外のリンゴの持つ質感のようなものも、
私たちは感じているはずです。

ただ単に、それを言葉にできない、ということ。

つまり、表現可能にするということを言い換えると、
その感覚に該当する言葉を割り当てること、でしょう。


前回、“生命宇宙論”が理論であるなら、
それは論理的に説明されるものでなければならない、
しかし、世の中には論理にならない事柄もある、
どうすんべ?というところで終わってました。

上記のことを考えると、言葉になっていない表現があるなら、
何か適当な言葉を割り当ててやれば良さそうかも、
と思えます。

実際、科学のさまざまな解明の際には、
新しい言葉が発明され、その物質や現象に名付けられてきました。

全て物質を形成している粒々は“原子”と名付けられ、
それはさらに小さな粒々でできていることが解ってくると、
そのさらに小さいやつは“素粒子”と名付けられ、
粒々では説明できない波っぽい考え方もいるとわかれば、
とりあえずそのような量を持つ“量子”と名付けられ、
以下云々。。。

結局、科学的発見というのは、
同時に、そのモノゴトが命名される、ということです。

名前がつけば、私たちはそれをその名前で、
即ち、そういう言葉で表現することが可能になります。

ならば、“生命宇宙”も、
何か新しい表現(言葉)で説明すればよろしい、と。

しかし、そう単純にはいかない。
言葉で何かを表現するということ自体が持つ、
ゲーデルなどが指摘する欠陥は解決しません。

ある言葉Aで別の言葉Bを表現しようとすると、
ならば言葉Aとは何か、という説明責任が発生します。

例えば、

「“嘘”というのは“本当”ではないことである」

という場合、では“本当”とはどういうことか、
という話になる。

また、ある文章Cがあったとするなら、
その文章Cを必ずしも文章C自身で表現することはできません。
(表現できることもあるが、できないこともある不完全性がある)

例えば、

「私は嘘つきである」

という文章は嘘であるかどうか。
この文章のみでは確定的に判断することができません。

このへんの詳しい理屈は、
ゲーデルなりカントールなりの諸説を研究されると良いんだけど、
とりあえずここでの本題はこのロジックではなく、
どうすれば“生命宇宙”を表現できるかなので、
その解決法のみ書いて話を進めます。

上記の問題はどうすれば解決するか。

これは、“クラス”と“インスタンス”という概念を使うと、
最もスムーズに合点がいくと思います。

ここでいう“クラス”というのは、
あるいくつかの属性を持つ抽象化された概念を表すもので、
例えば“リンゴ”という言葉もクラスであるといえます。

実体としてのリンゴは、色や形も様々であって、
個々がそれぞれ固有の性質を持っています。
(赤は赤でも明るかったり暗かったり、形も微妙に異なる)
しかし、リンゴはリンゴです。

リンゴという名前で呼ばれるものには、実は2種類あって、
その実体としてのリンゴと、その抽象としてのリンゴ、ですね。

その後者を“クラス”と呼びます。
クラスに対して実体は“インスタンス”と呼ぶことにします。

オブジェクト指向を知っている人は馴染み深い言葉でしょう。
これが一番言い得ていて喩えやすいので、この表現で参りますヨ。

“嘘”と“本当”という言葉は抽象概念、つまりクラスです。
この2者はそれぞれ異なる属性を持つクラスです。

それぞれをインスタンス化(実体化)するなら、
例えば、次のような表現になるでしょう。

「“リンゴは辛い”とは“リンゴは甘い”ということではない」

このインスタンスを見れば、
私たちは感覚でそれを納得することができるでしょう。

と同時に“嘘”というクラスと“本当”というクラスがどんなものか、
直感的に理解することができるでしょう。
(この文脈には、嘘と本当以外にも多くのクラスが含まれていますが)


「私は嘘つきである」

この文句を述べたのが“私”という人間であるなら、
“人間”というクラスは、
本性として必ずしも正しくないことを述べる可能性がある、
と考えれば、しごく自然に文章の誤りを認めることができます。

それは反則?

表現として成立するならアリなのです。
ここはそういう風に考えてくださいまし。

つまり、主観で見て解決しない問題というのは、
大抵それを外から眺めてみたときに、
答えが見えたりするものだということです。
(喩えは悪いかもしれないけど。)


“生命宇宙”というのは、
“生命”という言葉と“宇宙”という言葉をくっつけた、
いってみれば造語です。

ここでいう“生命”と“宇宙”は、
いずれもクラスと考えることもできるし、
クラスであるからにはインスタンスにもなり得ます。

インスタンスの方は、既に私たちは知っています。

まさに今の私たちが“生命”であるし、
私たちが存在している場が“宇宙”です。

そして重要なのが、“生命宇宙”というのは、
その両者でひとつである、と考える抽象だということ。

その“生命宇宙”をある体系で(論理で)説明するというのは、
そのインスタンスの抽象概念、つまりクラスはどういうものか、
ということを説明することになることが分かってきましたかね。


…という感じで、このあたりをもう少し突っ込んで考えていきます。

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コメント(2)

科学的発見が命名とと結びつくところは、そのとおりと思いますね。

ところで、ものの定義を「クラス」と「インスタンス」で喩えるのは、「クラス」と「クラスに定義されたメソッドへの振る舞い」の方が分かりやすいかとも思いますが、もともとの喩え話とは発信者と受信者が理解しやすいものであれば、そもそもの性格から正しい情報ではないので、どちらが正しいと判断できるものではありませんが。

わたしは、「定義」=「必要十分条件」ではないか、と思います。これを最初から「必要十分条件」が示されるのならそこで話は終わるのですが、言語で表わそうとすると「必要条件」であったり「十分条件」であったりするので、それぞれを「必要十分条件」に近づけるべく、「必要条件」や「十分条件」を「定義」の要素に加えていく作業になっているのではないか、ということです。
反証や想定外要素が出れば必要条件を増やしたり、十分条件を見直したり、ということです。

結局科学では定義を求めて、これを言語化し、命名していくのだろうけれど、他にも思考方法はあるのではないか(言語化しないのでメディアに載せて広く伝播することは不可能ですが)と思います。

これの一つに禅問答があります。問答の中で必要条件や十分条件を表わし、徐々に質問者の中で、言語化されないその定義(=本質)を理解させる、というもの(とわたしが解釈しているもの)です。

「そもさん」「せっぱ」「○○とは何か?」「○○とは××では無い」
「そもさん」「せっぱ」「○○とは何か?」「○○とは△△では無い」
・・・
の繰り返しで、否定の形での条件提示が普通だと聞きましたが、これを質問者が理解するまで繰り返すのだそうです。

ここの話は、抽象概念=クラスで、その実体=インスタンスという考え方で「生命」+「宇宙」を捉えてみたらどうかな、という試行でした。

メソッドは、多分クラスの方を考えることになりますが、私たちが(言語ロジックで)認識しているメソッドと、まだそうでないメソッドもあるんじゃないかなと。インスタンスであれば、言語(記号)化されていないものでも感覚としてはある、つまり、とりあえずは論理空間になくても良い、というものとして置いておけると。

とはいえ、「クラスに定義されたメソッド」を考えることも大事で、実際にインスタンスで機能しているメソッドは、必ずしもそれと同じでない(オーバーライドされている、とでもいってみる)こともあるけど、その基本となる機能がどんなものかと考えるのは、クラスの性質や属性を考えることにつながってきますね(これは多分、次のステップ)。

上の禅問答を言い換えると「××でなければ○○である」ですかね。××を必要条件A、○○を十分条件Bとするなら、命題「¬A ⇒ B」が真であるA(理解済みの事柄)を考えていくことでB(所望のもの)を導く。「それが紫でなければリンゴである」、「それが円錐形でなければリンゴである」。。ただ、それを論理空間に乗せる段階で、紫のリンゴや円錐のリンゴがないことを完全に否定するには、その論拠が必要になってきそうです。

なかなか難しいですね。

# これはコミュでやるべきかな。(笑)

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