2008年5月アーカイブ

高級料亭「船場吉兆」での料理や食材の使いまわしが発覚。加えて食品の産地(ブランド)が偽装されていたことも明るみに出た。このことで当の船場吉兆は廃業にまで追い込まれる顛末となり、これは今や船場吉兆のみならず、食品業界全体の信用問題へと発展している。

何が問題だったのか

船場吉兆の釈明によれば、「いったん他の客に出したが手付かずの料理を再利用した」とのこと。確かに、精魂こめてせっかくつくった料理。それが手付かずのまま下げられてきたら(本来はそれは捨てられるわけだが)それは誰でも勿体無いと思うもの。特に高級料亭であるだけに、食材も効果であり、料理も一流の料理人の手がかかっているわけで、そこには一定のコストが発生している。

問題は、その本来捨てられるべき料理が他の客に再利用されている、ということ。これにより店としては料理にかかる手間とコストを削減できることになる。また、見た目に手付かずの料理であれば、若干手直しすれば見た目にはわからないし、店としては合理的なのだ。ただ、よもや船場吉兆のような高級料亭でそのような行為が行われているとは、客だって夢にも思っていなかったろう。まさにそこが今回の問題の根幹であるといえる。


使いまわしはいけないことか

料理を再利用する、ということは、ごく普通の家庭や友人や知り合い同士の食事においては日常的に行われていることだろう。それを料亭がやってはいけない最大の理由は、その料理が商品であるからだ。客としても、新品であると信じていた商品が他の客の下がり物だとなれば心中穏やかではないだろう。ましてそれが口に入れる料理ともなれば、安全性の問題にも発展する。

また、船場吉兆の場合は、ただの食堂ではなく、料理が高級であることを売りにしている店である、という点も、今回の問題が大きく注目される理由になっている。


他の店は大丈夫か

高級料亭でそのような行為が常識的に行われていたのである。当然、他の飲食店は大丈夫なのか、という疑念は浮かんでくるだろう。一度客に出された料理や食材を他の客に使いまわす。そのようなことをしている店は、残念ながらゼロではないことを予想するのは容易だ。実際、食品に関する不祥事は船場吉兆だけでなく、有名な菓子メーカーや食品ブランドにおいても、ここ最近で続々と発覚している。

実はこのような問題が発覚する前から、世間(消費者の間)では「もしかして」とは思っていたことではないだろうか。今、船場吉兆のような飲食店の模範となるべき店舗でそのような行為が発覚した為に、「やっぱりそうか」と不安が確信に変わり、今、社会問題として大きく取り上げられるようになった、ということだろうと思う。

これはある意味、飲食店や食品業界の姿勢を正す良い機会を与えた事件、といえなくもない。


消費者はどうすべきか

そのような行為が食品業界で常態化しているからといって、消費者はやはり食品を買わないわけにはいかず、これまで通り食品業界から提供されるものを信用していかなければならない。特定の店舗やメーカーにのみそのような問題があるのであれば、その店やメーカーを選択しなければすむのだが、おそらく問題がある店やメーカーはひとつやふたつではないだろう。

これに関して、実際消費者が打つ手はない。つまり、信用するしかない。そして、業界はそのような優位の上にあぐらをかいている、というのが現状といえるのではないか。食材の産地を偽装しても売れる。賞味期限を延ばしても売れる。食材を再利用しても売れる。要は、そのような行為をうまく隠蔽してどれだけ利益を上げられるか。経営陣がそこに大きく注力していたのだとすれば、実に由々しき事態だったといえる。

とはいえ、ここ最近は、食材、食品の値上がりも激しく、どこかを合理化しなければ従来通りの利益を上げていくことができなくなっているのも実情で、率直な言い方をすれば、どこかで"ズル"をしなければ、現実問題として経営が立ち行かないという事情もあるのだろう。それだけに、今後は、食品の流通や扱い方、その品質や安全性などの管理の仕組みがどこまで機能するかが問われていくことになると共に、食品の流通に関する政治的な対応も迫られている。

他人に「すみません」とか「ごめんなさい」っていえる人、
最近少ないよね。

当然、友人とか客先とか職場の上司とか
知ってる人にはちゃんというんだけど、
例えば、満員電車なんかで、
無言で人をモノのようにグイグイと押しのけて出てきたりとか。

今朝の話だけど、
スイカのチャージ不足かなんかでアラームが鳴って
改札の人の流れを止めた人がいたんだけど、
さも機械が悪いかのようにブスッと逆切れした感じで、
後ろに詰まってる人には一言もなし。

 そこはゴメンナサイやろがぁ!(関西のヤクザ風に)

ちゃんと「すみません」っていう人もいるけど、
割合的に大体半々くらいかなぁ。。

ところで、私はどうかというと、その逆だったりする。

つまり、知り合いやいつも接してるような人には、
あまり「すみません」とはいわない。
本当に自分が悪いと思ったとき以外はいわない。

えーと、謝る意味の「すみません」はいわないってことね。
声をかけるときのexcuse me的な「すみません」はいいますよ。

だって、普段からあんまり謝ってばかりいると、
本当に謝らなければならないときに
なんて言えばいいかわからなくなるでしょ。

で、普段あまり謝らない人が
「すみませんでした」と謝ってくると、
ああ反省してるなーという気持ちが伝わるでしょ。

あと、人に何かをしてもらったときに、
んー例えばお茶とかを出されたときに、
「あ、すみません」という人と、
「あ、ありがとうございます」という人がいますね。

そこは謝らんでも良いだろうと。
私はなるべく後者になるようにしてます。
(知り合いには「あざーっす」程度ですが)

んで、知り合いではなく、全くアカの他人に対しては、
私は「すみません」といいます。

そういう状況って、
大抵あからさまに自分が人に対して迷惑かけてますからね。
電車を降りるときとか、スイカチャージしてなかったりとか。
そういうシチュエーションではちゃんと謝っとく方が良い。

社会というのは、
基本的に人同士がお互いに迷惑をかけ合うところです。

だから、お互い様だし謝る必要もないだろう?
という考え方の人もいるんだろうと思いますが、
グイッと押しのけられて不愉快でない人はいないわけで、
そこはお互い様でも挨拶はあって良いと思うんですよ。

お互い知らない間柄であればあるほど、
形式的な挨拶というのは重要になってくるんじゃないか。


これは私の偏見ですが、内輪に対してよく謝ってる人って、
他人に対しては横柄だったりすること多くない?


あと、挨拶全然関係ないけど、
鼻息荒い人、すごく気になる。ってか、悪いけどウザイ。
満員電車で耳元でスーピースーピーやられると、
だんだん腹立ってくる!

本人気づいてないんだろうなぁ。。

あー、謝らない人ってのは、
基本的に罪悪感ゼロの可能性もあるんだな。

2006年12月にサービスを開始してから瞬く間に国内のWeb動画ブームのメインストリームに躍り出た「ニコニコ動画」。それまでの動画共有サービスといえば「YouTube」が何となく知られている程度だったのだが、その後発であるニコ動がここまで人気をさらっていったのは何故なのだろう。

2ちゃんねるからニコ動へ

ニコ動が他のサービスと一線を画しているのは、何といってもコメント(文字列)を動画の上にオーバーレイして表示する機能だ。これは、コメントの文字サイズや色を簡単にデコレーションして流すことができる、というもの。端的にいえば、動画の上でチャットができるようなものである。

これがヒットする前の土壌として、巨大Web掲示板群である「2ちゃんねる(2ch)」の存在がある。2chでは、完全に匿名で好きなテーマの掲示板の好きな話題(スレッド)に好き勝手に自分の意見を書くことができる。その中には、画像や音楽などが紹介されることもあり、それに関連する話題が派生したり、その画像や音楽を実際に観たり聴いたりできるWebサイトのURLなどが紹介されたりすることもある。

ニコ動はその逆だ。動画や音楽がまず紹介され、それについて閲覧者がいろいろなちゃちゃを入れるわけだ。その動画は誰でも掲載(アップロード)することができ、掲示板のスレッドを立てるノリで動画をアップロードして、その動画自体が語り合う場になるわけだ。

もともと2chがWeb上でかなり多くのユーザを得ており、その2chの文化そのままに、舞台を動画の上に移したのがニコ動だといっても良いだろう。

ニコ動の付加価値

動画の上に文字を重ねる、という手法は、一見すると動画が文字で隠れてしまうことになり、動画が観づらいじゃないか、という印象がある。実際、大きな文字を大量に流されると、肝心の動画が見えなくなってしまうこともある。これが不思議とあまり抵抗なく受け入れられているのだが、それは何故なのだろうか。

実は、ニコ動のユーザにとって、動画を見ることも目的のひとつであるが、そこに流れるコメントを見ることも重要な目的のひとつになっているのだ。まず話題の元となる動画はありきであるが、それに関する感想や意見、賛美絶賛、不平不満などの反応も楽しんでいるのである。そのコメントを見てさらに別の反応が付き、その連鎖で動画というスレッドが盛り上がっていく。これがなければニコ動である必要はなく、動画だけを堪能できるYouTubeで十分ということになるだろう。

また、ニコ動では、その動画の再生時刻に対してコメントを入れることができる。流れている動画の「ココ!」というポイントで突っ込みを入れられるということ。また、コメントの文字列の長さによって文字が流れる速度が変化する。動画のタイムラインや文字の流れを利用してコメントのタイミングを計ったり見せ方を演出するというのはニコ動ならではの新しい楽しみ方といえる。

マイナーをメジャーに

ニコ動は、会員登録(無料。プレミアムは有料)さえすれば、誰でも動画をアップロードできる。つまり、プロの放送事業者や作家、クリエイターでなくとも、不特定多数に対して自分の作品なり訴えをそこに公開することができる、ということだ。

そこには、ある程度のモラルや倫理的なルールというものは存在するが、基本的に何でもアリである。世の中の流行に沿っている必要もないし、全く自分の趣味の映像をつくって公開しても良いわけである。それがどう評価されるかは閲覧者次第。最初は自分だけの趣味だったのに、公開してみれば大ウケでブームにまでなってしまった、ということもニコ動では頻繁にあったりするのである。

また、世の中ではマイナーな文化だけど、世の中の方が食わず嫌いなだけで、ちょっと観たり聴いたりしてみたら「意外と良いな」というものも幾多と存在する。ニコ動は、そのようなマイノリティのメジャーデビューの場も提供しているといえるだろう。

問題点

扱う対象が映像、楽曲であるだけに、やはり著作権、版権の問題はついてまわる。実際、無許可での公開(二次利用)が禁止されている映像やJASRAC登録曲なども日常的にアップロードされている。ただ、現状のルールをそのまま遵守していたのでは、ニコ動のような文化やエンタテイメンメントはスムーズには成立していかないという葛藤があるのも事実で、これはニコ動だけでなく、IT文化全体が孕んでいる問題である。どちらかといえば、現状のルールがいささか時代遅れな位置にあるのであり、今まさに、その作者や権利保有者、そしてユーザの両者に最も利のある新たなルールの策定が求められている。

また、上記とは別に、ニコ動はコミュニティであり、そこには2chやその他のSNSなどが持つコミュニティとしての問題も存在している。特定の作品や人物を中傷したり、場を荒らすだけのコメントをするだけの人が現れたりといったことは、インターネットという完全にパブリックな世界では避けることができない。これは運営側ではなかなか解消することのできない問題で、どちらかといえばユーザ同士が一定の(常識的な)ルールを持って接する必要がある。

おととい、ちょっとノドが痛くて
あと頭痛と鼻水も出たりとかあったので、
ちょっと症状を緩和しとくか程度にカゼ薬買って飲んだら、
一発で全部の症状がスッキリ消えやがんの。

なにこれ。逆に怖い…。


最近ネタが殺伐としてきてるので、
ちょっと癒し。

今回は動画なので折り込んどきます。

漢字変換で、間違った第一候補をそのまま決定してしまい
「っだよコレ[E:angry]」って消してもう一回打ち直して
次は第二候補を選んだら第一候補が正しいやつに変わってて
第二候補が間違っていて、同じ字に変換しちゃったときって、
ムカつくよね。


ちょっとショックなニュースが一件。

 元TBS・川田亜子アナが自殺 車に練炭と遺書
 (MSN産経ニュース

特に川田アナファンというわけじゃないですが
以前私がよく見ていた番組「ネプ理科」でネプチューンと司会やってて、
その時はとても自殺する風(な性格)にはみえなかったので、
人って外見、というか振る舞いだけではわからんものだなぁ…と、
微妙に驚いたのですな。

いや、ナマコとかを素手で握るんですよ。川田アナ。
あれは衝撃。

ナマコだけじゃなく、
もっといろんなゲテモノを平然と素手で触るのよね。
あれは最強だと思ったんだけど。
(以前はYouTubeにその映像があったんだけど、今はもうないね。)

ところで、自殺する人ってのは、
それで全部何もかも終わりだってことを理解してるのかな。

この人生どうやら失敗ぽいから、
ちょっとリセットして別の(次の)人生を始めてみよう的な、
ゲーム感覚でやってるんじゃないの風味があるのよね。

そこまで分別ないことない?

それなりに年齢の高い人が何度も失敗を繰り返して、
何をやっても上手くいかず好転の兆しすらないってときに、
あーもうこれ以上生きていても辛いだけだろうな、とか
負の方向に悟って自殺を選ぶというのは、
まぁ、なんとなく分からんでもないのです。

でも最近は、まだあまり苦労を知らないであろう若い年齢、
大体10~20代とかの人がよくやるじゃないすか。

少なくとも川田アナなんて、
私なんかの人生よりよっぽど成功してますよ?

これ、心の病気絡みなのかね。
発作的にやっちゃうのか。
魔が差したってやつか。

でも、死んじゃったらオシマイです。

前にも書いたけど、自殺しようとか考えている人は
とりあえず宇宙論考えよう。

そんなの関係ねー。

いや、関係ないからいいのです。
むしろ全く関係ないアサッテ方向のことを考えるほうが良い。
ちょっと現実逃避した方が理性が取り戻せるのです。

宇宙とか考えると、人間ホント小さいよ。

137億年の宇宙の歴史の中で、
人間の一生なんてケシ粒にもならないスケールですよ。
って考えると、今の自分の悩みなんてどうでもよくなってくるから。


最近、死ってことがあまりにも頻繁にありすぎて、
社会的に免疫ができてきてるんじゃないのか?という気が。
「またか」的な空気があるというか、何かフツウになってるというか。


事情はどうあれ、
川田さんに関しては、ご冥福を。


 to me...  ('A`)

なんかノドが痛い…。

 消費税率は最大18% 政府が「基礎年金の税方式」を初試算
 (MSN産経

18% …。

 フ・ザ・ケ・ル・ナ!

ていうか、もうその時点で財政破綻してるでしょうが。

いや、北欧諸国みたいに、計画的に高税率にして
その分、福祉厚生、医療、老後の面倒なんかを手厚くしている、
というのなら良いんですよ。

日本の場合はそうじゃない。

今のまんまいけば生産人口が減り要介護人口が増加して
やがて予算が足りなくなるから“やむを得ず”増税という、
とてもイタダケナイパターンです。

何で18%なんてことになってるかというと、
今、社会保険制度で徴収している年金保険料が、
未納者が多かったり、その管理に不備が多かったり、
いろいろ運用に問題があるから、
それなら全員からバッチリとれる税金で巻き上げて、
それを年金にあててしまおう、という話なんですな。

18%ということは、
1000円のものは1180円に、1万円なら1万1800円になる。
オリジナルDVD同梱版アイドルマスターL4U 9800円買おうと思ったら
1万円超えるんだぜ。

コレどうなんだ。おい。

年金保険料は、私の場合、月14800円払ってるんだけど、
つまり、毎月の消費(要は買い物)が8、9万円にもなれば、
その消費税は現状の保険料を軽く超えてしまうと。

実際、食費、光熱費、家賃なんか諸々の生活費だけでも
毎月10万円じゃすまんでしょ。


何度も言うようだけど、
市民、国民にそういう無理強いをする以上は、
議員先生方も、
同様に相応の処遇をしていただきたいわけですよ。


以下、愚痴グチいうので、
久々に記事を折り込んでおきます。

パヒュームといえば
昔、ワンダーパヒュームっていう馬がいたよね。


オリジナルとコピー。

オリジナルというのは本物で、コピーは偽者である、
というのは世間の大概の見解でありましょう。

世の中が高度情報化社会などと呼ばれ始めて久しいけど、
大量の情報が流れやすくなったということは、
大量の情報をコピーすることが容易になった、ということ。

コピーというのは、もともとは
同じ情報を多くの人の間で共有する為のものだと思うんだけど、
近年は、オリジナルをただコピーするのではなく、
何か別の情報を付加して別の見せ方をしてみる、
という文化が台頭してきてます。

アレンジですな。

そうなると、オリジナルはありつつも
オリジナルとはまた別のものになること多々で、
そうなると、コピーというよりは
それもひとつの創作として新たなオリジナルになる、
ということになるんだろうと。

それじゃ元々のオリジナルの作者が報われないじゃないか。

アレンジするならオリジナル作者に許可を取れ。
許可をとって、それで仮に売りがあるとするなら、
そのオリジナル作者にも見返りがあるべき。
ということで、著作権、販権の問題がうるさく叫ばれると。

このへんの話はどうも分かりにくい。

そもそも、オリジナル作者の定義とは何か。

そりゃ最初にその商品なり作品をつくった人だろ。
でも、その人だって、それをゼロから作ったわけじゃない。
それも何か別のモノからヒントを得て、
それを組み合わせたり形を変えてみたりした結果、
新たに別のモノが生まれてくる、てことなんすよね。

それだってアレンジ作品。

これも何度か書いたと思うんだけど、
人間は、無から何か新しいものを生み出すことはできない。
何かをつくるには材料が必要。

それは物理的なものばかりじゃなくて、
思想や想像の中のものだって同じです。

どんなものすごいモンスターを想像しようとしても、
それはどこかで見たことのあるモノの組み合わせになるし、
見たことのないものは、そこに入ってこない。

音楽や映像なんかも同じ。

どこかで聞いたことがあるなー、パクリじゃね?
という議論も、どこまでがパクリで、
どこからが新しいものになるのか、
という線引きは、やろうとすると結構むずかしい。

まぁ、あからさまに同じメロディーだったり
全く同じフレーズだったりすることもあって、
そういうのに反応するのは仕方ないとは思うけど。

曲の一部が別のアノ曲に似ているとか、
この単語はあの詩にもあったぞ、
程度のものに目くじら立てるのは、
子供の言い掛かりレベルじゃないのかと。

私はね、
そんなものにわざわざ線引きしなくて良いと思うんです。

オリジナル作者は、
自分の作品に一定の価値をみてるわけですよね。
それを良しと思って発表するなり商品化するなりしている。

それと同じもの、或いは近いものを別の誰かがつくっても、
自分がオリジナルだと思ってるなら、それで良いじゃないの。
こちらがオリジナルだと認められているなら、
コピーは永遠の二番手であって、一番のプレミアは揺るがない。

コピーの側が「いやオレの方が一番だ」と主張するようなら
そこは感情論としてはまぁケンカしても良いと思うんだけど、
「ふうん、必死だな」程度にあしらう方が数段クールである。

というより、そういう二番手はあまりいなくないですか。

コピー、アレンジサイドは、
ちゃんとその元となったオリジナルがあることを認識していて、
自分はそれをコピーしている、アレンジしているんだ
という立場を結構わきまえていると思う。
(特許とかはえげつないみたいだけどネ。)

そういえば以前、三谷幸喜が何かの番組のトークで、
「古畑任三郎は、コロンボのパクリです!」
とスパッと言い切ってたのは、むしろ清々しかった。

とはいえ、著作権が泥臭い商売に絡むと、
コピーするならオリジナルの権利者にちゃんと金払えや
という話になって、結局そこが肝なんだろうけどね。

あー、念のため。
同じコピーでも、創作物とか作品ではなく、
有料ソフトの無断コピー使用とか、
CDやDVDなんかのコピー再販とか、
全く同等のものをタダ利用するのは犯罪。

上の話は、オリジナル作品と
それを題材にしたコピー、アレンジ作品の話ってことで。


いや、動画共有サイトが楽しいのです。

公共に流すものとしては絶対つくられない映像が多いし、
そういう媒体がなければ
おそらくずっと誰も知らないままだろうモノが世に出ている、
という面白さですよ。

こういう草の根の楽しみや情報を不特定多数に広げる
という試行は、かなり当たってると思うな。

どうも、“ぷらす”です。
秘密スーパーひとし君プロジェクト進行中です。

ああ、私が最初から存在していなければ
どんなに私の人生楽チンだったか。

という議論はパラドックスめいてるけど、
間違っちゃいないよね。

あー違う違う。そういう意味じゃない。
こんなこと書いたらプロバイダに消されるのか。

“自分の存在しない世界”というのは
一体どんなものなんだろうかと考えたことはないですか。

私だけですか。そうですか。

いえ、自分がいようがいまいがお構いなしに
この世界はずっと続いているんだろうし、
それは過去も未来もそうなんだろうけどね。

客観的に考えればそうだけど、
いざ自分が生まれ出る直前、直後、或いは消える直前、直後、
そこで主観的に見た世界というのは、
どう立ち上がり、そしてどう消えていくんだろうな、と。

生まれるというのは、
胎児でいる状態から、おぎゃあと外へ出る瞬間、かな。
消えるというのは、死に際、で、死んだ後か。

そこに自分(という主観)はいるのか。

道理的に考えれば、そこに自分はいない。
こいつがさっぱり想像つかんのですよね。
いないんだから、想像しようもないんだけど。

そもそも自分という存在が、
なぜまさにこの自分なんだろうか?

物理的には、人間をはじめとする地球上の生物ってのは
結局のところ水とタンパク質の塊なのよね。
そんなものが意識や自我を持って
どうやら自立的に行動してる(ようにみえる)わけです。

実に解せん。

まぁそんなことはもう何百何千年前から
いろんな哲学者や科学者が悩んできたことで、
今「それはこういうことなんだよ」とか私が思いついたら、
それこそノーベル賞どころの騒ぎじゃない。

ま、そりゃいいんです。

いいんかい。

てか、今日明日に答えが出るもんじゃないので
棚に上げておいて。

例えば、仏教の考え方に
“輪廻転生”というやつがあります。

端的にいえば、霊魂というやつは消えることなく続いていて、
そいつがいろんな生き物にリサイクルされる、というもの。
意識や自我というのはその霊魂についていて、
その霊魂が物理的な生体に宿る、というわけですな。

その真偽は置いくとして、
「次、生まれ変わるなら、また人間がいいな」
なんてことをよくいうよね。

いわないか。

いうんだよ。

というより、次も人間であることが前提になってること多々。
次は女が良いとか、男が良いとか。
もっと美人にとかスマートにとか、
カッコよくとかイケメンにとか。
(狩野じゃないよ)

でも、生まれ変わったら
犬になってるかもしれないし猫かもしれない。
ゴキブリやハエかもしれない。
タンポポかもしれないし松ぼっくりかもしれない。
そのへんの石っころかもしれない。

大抵そういわれたら、そんなのいやだ、
と思うんだろうけど、
それは今が人間だからなんだよね。

犬になったら、それはそれで
犬である自分が全てなのであって、
それ以外の存在になることは考えられない。

それとも、犬は犬で人間に生まれ変わりたい、
なんて思ってるだろうか。

いや、犬はそんな哲学的なこと考えないか。
擬人化したらってことで。

逆に、人間よりもっと高等な知性を持った異星人とか、
星や空間や宇宙の意思的なものが存在するとするなら、
彼らから見た人間というのは
おそらく人間から見た犬や猫程度の存在なんじゃないか。

でも、そんな存在がいるとしても、
人間はそういう存在に生まれ変わりたいと思うだろうか。

やっぱり人間じゃないか。

それって、
人間であることで得られる自由度や楽しみといったものが
次の人生にも期待されているからなんだろう。
そして、それ以上のことなんか想像できない。

だから、次アメンボに生まれ変わっても、
それはそれでアメンボの人生を送るだけの話なんでしょう。
チクショウ人間が良かったよ、なんて思わない。
てか思えない。

行いが悪いと神様に人間じゃないものに変えられるよ、
なんていう教え方は、
人間じゃない存在に非常に失敬である。

人間って、傲慢だよね。基本的に。


んーメメント・モリ。


最近、なぜかお茶犬の曲が脳内BGMになってます。

意味?そんなものはない。

正午を過ぎる頃、
それまで静かだったオフィス内は
昼食へ出かける人たちで慌しくなる。

外へ出ると、夏を思わせる快晴。

今日はひとりで
オフィスから少し遠い食堂へ出かけてみる。

天気の良い日は、歩くことがあまり苦にならない。
むしろ、それまで座り通しで仕事をしているので、
ちょっと歩きたいのである。

ガード下に並んでいる食堂の一軒に入り、
鉄火丼を注文。
水はセルフサービスなので、
水を汲んでから席に着く。

すると、その店のBGMに
何やら聞き覚えのある、
懐かしい曲のイントロが流れてきた。

シャ乱Qの『上京物語』だった。

レトロだな。USENだろうか。


私がこの曲をリアルタイムで聴いていたのは、
ちょうど大学受験のときだった。

まさに東京へ出ようとしていた頃。

当時はmp3はおろか、MDすらまだない時代で、
CDをカセットテープに録音して聴いていた。

東京へ受験に向かう私を、
駅まで車で送ってくれた母親が
わざわざホームまできて見送ってくれるのだが、
あのときの別れ際の物悲しい感覚が
今でも結構はっきりと思い出されるのである。

初めての一人立ち。

17年間家族の中で育った私が、
ついにその元を離れることになる。

当時の私にとって東京というのは、
友達も知り合いも誰もいない、
頼れる者もいない全くの異世界、
そんなイメージだった。

そんな漠然とした不安を何とか紛らわすために、
プレイヤーのボリュームを大きめに上げて、
汽車の中でその『上京物語』を聴いていた。

そのときの客車に漂っていたディーゼルの匂いと共に、
当時の不安と期待が入り混じったあの複雑な感覚が、
その曲を聴いていると想起されるのである。


鉄火丼を食べ終える頃には
店内には既に別の曲が流れていたのだが、
私の頭の中ではずっと『上京物語』が流れていた。

店を出て、再びオフィスへ向かう。

ゴウッと都会の雑踏に投げ込まれ、
過去の世界から一気に現実へ引き戻される。

考えてみれば、もうあれから15年になるのか。

あのときは、まさか私がこんな東京のど真ん中で
しかもフリーランスで仕事をしているなどとは思わなかった。
そんな度量も自分にはないと思っていた。

そして今の私も、
15年後の私のことなど、さっぱり予想できない。


ただ、予想ができないからこそ
人は夢が見られる。


※私の地元(鳥取)は列車が電化されておらず、いまだにそれを「汽車」と呼んでいる。

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