生命宇宙の世界(12)

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久々に、こんばんは。

今回は“生命宇宙”という、およその概念について。

その前に、まず理解しておくべきことですが、
宇宙の謎を解明しようとする、というそれ自体
宇宙の法則に包含されているということ。

宇宙という器の中で宇宙自体のことを全て語ることはできず、
実はそのことを誰しも知っているはずです。
少なくとも科学者、或いは哲学者などは理解しているでしょう。

宇宙というような途方もないスケールで理解できなければ、
普通に、自分自身の意識ということで、
その理解できる範囲を考えてみればわかると思います。

結局、それは自分の認識という域を出ていない。

このことは、物理的な宇宙空間のことだけでなく、
抽象的な宇宙全ての概念も含んで、宇宙というそれ自体のうちのもの
だということをまず知って置く必要があるだろうということです。

とはいえ、そんな宇宙の、さらには物理現象世界という檻に
閉じ込められた我々にも、ある種の想像の中では無限定で自由である
という希望があるだろうと思います。

精神世界、抽象世界であれば宇宙を客観的にみられるかもしれない。

しかし、実はその概念すらも宇宙の一部であり、
さらにいえば、一個の人間という生物の周辺に発生している過ぎない
自然現象の一部である、と。

なんと知的に無力だろうか、と感じられるかもしれませんが、
実際、我々人間という生物の持つ知性の範囲は、我々人間に限っていえば
ほぼ無限といって良い可能性があるでしょう。


さて、閑話休題。

上に投げた石が下に落ちるのはなぜでしょう?

それは、地球に重力があり、石はそれに引かれて落ちるからだ。

それも一つの心理でしょう。

大人なら勿論、ちょっと理科の勉強をした小中学生程度に聞いても、
その程度の答えを返してくれると思います。

では、そういった前提知識を何も持っていない子ども、
例えば赤ん坊に同じ質問をしたら、何と答えるでしょうか。

この際、赤ん坊が言葉を理解できるかどうかは無視します。

とにかく、石を上に投げて下に落ちる、という現象を見たとき、
何も知らない赤ちゃんは、その現象についてどう感じるか。

「石が落ちたがっているからさ」

とあるテレビ番組の中で、アインシュタインの問いに
子どもがそう答えた、というくだりがあったのですが、
これはこれで真理を得ているのではないかと思ってしまった。

要は、特に何も考えなくても出てくる答え。
実はそういうものの中に、的を得ている何かがあるのではないか。

おそらく、最終的な宇宙の真理などというものがあるなら、
それは誰でも殆ど説明不要で理解できるものでしょう、と。

そうしたいから、そうする。そうなりたいから、そうなる。

そういう自我に内在した欲求を発露することが、
あらゆる現象の動機となり原動力となっているのではないか。

これは、生命の根本的な存在理由となり得るもので、
そこに発現する全てのものに、ある種の意味を与えるものです。

生命が生きること自体に意味はない。
また、それが存続しなければならない理由もない。
そもそも、この宇宙が存在する意味も理由もない。

ただ、そのような欲求があるだけだろうということ。

これは、いわゆる生物だけが持つ性質ではないのではないか。
その欲求の概念の拡張が“生命宇宙”のひとつの側面でもあります。

但し、宇宙に人格的な意思なり精神があるというわけではなく、
いわゆる宗教的な“神”の存在を肯定するものではありません。

ただ、人や生物は、宇宙の性質の一部を表現している片鱗であり、
宇宙のフラクタル的構造の中で、その外縁である宇宙というのは
人や生物を拡大した存在であるということもできるかもしれない。

その意味では“神”と等価であるかもしれませんが、
それは人が人に求めるような感情や善悪などはないということ。

そもそも、人が存在しているということ自体曖昧な事象で、
人間社会が確固たる現実であるという証拠は何もありません。
この世界をこのように見ているのは、最終的には自身の認識です。


 精神とは全てにして一なるもの。
 時空を必要としない精神がそこにはある。


これはオーストラリア原住民の間に語られている土着信仰ですが
ここでいう“精神”というのが“生命”それ自体ではないか。

オーストラリアに限らず、あらゆる国や地方で古来から語られる
このような伝承や信仰というのは、往々にして似たような内容で
そこに具体的な人格神はなく、形のはっきりしない、
何か元素のような精神的なものを崇拝するような傾向があります。

面白いですね。

近代の宗教は、まず何か偉大な人格神をつくり上げ、
人はその神様を崇め、頼り、無償の救いを求めたりもします。
つまり、今の殆どの宗教は、人の心の救いを求めるところに
その存在意義があるといえるでしょう。

それに対して、古代の人は特に何か救いを求めたりしておらず、
どちらかといえば、自然とはこうあるのだ、というような内容で、
だからこそ、真っ直ぐ自然を見つめたものが伝えられている。
そんな気がします。

そして、その域に人が達することは到底できない、
という謙虚さもあり、それは、人が宇宙というものの一部に過ぎず
物理的にも、精神的にも、その内側のわずかな部分しか
我々の目に触れることはないということを悟ったものかもしれない。

ただ、逆転の発想で、我々がその宇宙の一部であるならば、
それは全体を引っ張り出せる緒にもなるのではないか、と考えて
そこに突っ込んでみようかな、というのが“生命宇宙論”なのです。

あくまで「みようかな」。


見方を変えるだけで、別の側面が見えてくるということは、
これまでの科学史の中にも多くありました。

アインシュタインの「相対性理論」などはその典型で、
時間も空間も絶対的なものではない、と考えるだけで、
あらゆる物理現象をより柔軟に見ることができるようになった。

重力と、加速度による慣性力は、実は同じもので
見え方の違いは、足場をどちらに置くかの違いだけだったりする。
こうして何か固定した観念を取り除くことで見えてくるものがある。

同じようなことが、この宇宙(という現象)の中には
まだ多くあると思うし、みんな同じように考えてるでしょう。

ただ、その固定した観念というのがなかなか頑固で
一旦それが偏見や常識として身につくと、強力なフィルタとして
我々の本来の認識を遮断してしまいます。


実は見えていて、見えないもの。
それを見つけることが、謎に迫るポイントのひとつとなるでしょう。

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