生命宇宙の世界の最近のブログ記事

生命が生まれる条件は、加熱、冷却、乾燥、湿潤の繰り返し、
或いはその組み合わせ、或いはその順番、その温度、圧力、
構成要素にも影響され、全ての条件が符合したときに誕生する。

そうではなく、全ての条件において対応する生命が生まれているが、
我々と同じ系統の生命ではない為に、それが認識されていない
だけなのかもしれない。

そして我々は、それをいわゆる“生命”とは呼ばないだろう。
宇宙も生命である。しかし、我々のいう生命ではないのだろう。

四次元時空の構造は、我々地球上の人類が生存する上での
便宜的な考え方、容れ物、もし外界があるとするなら、
それとその内側を隔て区別する為の膜であるに過ぎない。

生命には“個”があるとされる。

個は、ある障壁で外界と隔てられているために生まれる概念で、
生命とされるものが誕生した黎明期においては、
そのような壁、或いは膜は確定していなかったのではないか。
そこからどのようにして個などというものが生まれたのか。

そして、外界と隔てられた個という閉鎖空間が生まれたことで、
それがいずれ生命、生物といわれるモノに変化したのだろうが、
どのレベルからそれを生命、生物と呼ぶべきなのだろうか。

さらに、我々人類、人間は、自我の認識を持っている。
人間だけではなく動物といわれるものは、程度の大小はあれど
個を意識する自我を持っているだろう。

実は、それは動物だけではないのではないだろうか。
植物、無機物、物体、空間、環境、星、宇宙、空間、森羅万象
全てに生命、意識、そして自我があると考えるべきだろう。

むしろ、それがない方が不自然ではないだろうか。

我々人間は地球上に生きている現象のひとつとして存在する。
例えば、地球表面の一部のプレートが少しばかり跳ね上がり、
その上に生きている何某かにとっては甚大な影響を与えても
それは、地球全体にとっては全く些細なことである。
それこそ、くしゃみかしゃっくりをした程度のことだ。

我々人間がたまたまその地球の陸地のほんのわずかな空間に
発現し、存在し、生命の営みを維持しているに過ぎない。

人間が占めている空間、時間というのは、宇宙はもちろん
星、地球という尺度から眺めると、ほんの一瞬の現象である。
その空間や時間に位置関係をみようとしていること自体が、
実に不毛なことのように感じられてくることがある。

時間というのは、人間にとっての便宜的な考え方に過ぎない。
我々の意識が物事の発生順番、因果関係を認識していないと、
正しい認識が生まれず、意識そのものを保つことができない。

連続的に事象が発生し、それが順に流れていると信じないと、
我々は意識を正常に保てないのだ。

その意味で、人間が認識する、しようとしている時間とは、
意識の整合性を保つために我々の脳が勝手に作り出している
仮想的な流れであり方向であるに過ぎないのだ。

これは時間だけでなく、空間にもいえることだ。

今、三次元の広がりとして認識されているこの空間も、
自分が今どこに存在しているかを認識しなければならないので、
それを一時的、或いは暫定的に決める為にある概念である。

さらに高次の構造がこの宇宙にあるとしても、
それは人間が生命活動を維持していくのに不要であるため、
人間が認識することができないか、認識しようとしないし、
機能の合理化と淘汰によりそのような感覚も備わっていない。

我々は、自分が今どこに存在し、どういう状況にあるのか
ということを、常に認識し識別し把握している必要がある。
それが我々の生命活動の主目的であるといっても良い。

それが自我を保つということであり、それが失われることは
つまり意識の喪失となり、自我がなくなるということになる。
さらにその個と外界を区別する壁、容れ物がなくなったとき、
我々はそれを生命、生物の死と呼ぶ。

今我々が存在しているこの世界、この宇宙だけではなく、
宇宙は条件や発生の可能性のある分だけ存在している。
いや、存在しているのではなく、存在する可能性としてある。
可能性があるということが、つまり、存在と呼ぶ条件を
満たすことになる、といった方が良いのかもしれない。

いくつもの可能性が全て共存している状態というのは、
現在の量子力学の範疇でも語られている宇宙論としてあるが、
そこでいわれている可能性の波が収束して具現化するという
いわゆる観察者ありきの考え方は誤りを含んでいるのであり、
そこで選択されているのではなく、全て実現している。

例えば、時間の後方移動や前方への著しい加速は不可能だ
と現状の理論家たちはいうが、不可能なのではなく、
現在手持ちの物理法則では理論的に破綻するというだけだ。

これはブラックホール特異点における法則の破綻に関しても
同様に、人間の物理法則が現時点未熟であるだけか、
若しくは人間の思考方法では到達できない事象というだけだ。

一般的に我々がいわゆる物理法則と呼んでいるものは、
正確には、人間だけが考えている、人間だけが認識可能な、
人間のつくりだした便宜的な命名規則であるに過ぎない。

あらゆる事象、物質の動向、時空の構造などについて、
人間の思考回路で数学的な理論を組み合わて物語をつくり、
それが人間の認識する限りの中で矛盾が取り除かれれば
それを標準的に法則として使用するということになっている。

ただ、それはあくまで人間の思考においてのみ有効であり、
宇宙や全体現象においては、人間のそうした活動というのは
もはやメタ的なものではなく、現象のひとつに過ぎない。

それはちょうど、地球上に暮らしている人間、一生物という
全部に対する一部という位置づけに等しいものである。
その一部も、特別な一部ではなく、極めてありふれたものだ。

そうであるので、時間を遡れないとか未来へは行けないとか、
そうした議論も人間の脳内、あるいはそのコミュニティという
思考空間の中での現象で言葉遊びに過ぎないのである。

この文章も支離滅裂であると認識されるかもしれないが、
それも現時点の人間、或いは個の常識に基づいた感覚であり、
その中で何かの真偽がどうかということは確定できない。

もしかすると、地球ガイアのような大きな生命が存在していて、
その「彼」は我々人間の誤った言葉遊びを滑稽なものとして
失笑に付しているのかもしれない。

我々人類の意識というのは、ホーキング博士のいうように
小さな胡桃の中だけを議論をしているだけなのかもしれないし、
もしかして胡桃の外の話ができる可能性があるかもしれないが、
実際は結局たんぱく質の塊に過ぎない人間のできることなど
そう大したことはないという認識くらいは持ってしかるべきだ。


……というような話を同僚に熱弁する夢をみた。

いや、実際にはもっと違ったことを喋ってた気がするけど、
文章を書いているうちにいろいろ補正がかかってこうなった。

ええ、よくあることです。

久々に、こんばんは。

今回は“生命宇宙”という、およその概念について。

その前に、まず理解しておくべきことですが、
宇宙の謎を解明しようとする、というそれ自体
宇宙の法則に包含されているということ。

宇宙という器の中で宇宙自体のことを全て語ることはできず、
実はそのことを誰しも知っているはずです。
少なくとも科学者、或いは哲学者などは理解しているでしょう。

宇宙というような途方もないスケールで理解できなければ、
普通に、自分自身の意識ということで、
その理解できる範囲を考えてみればわかると思います。

結局、それは自分の認識という域を出ていない。

このことは、物理的な宇宙空間のことだけでなく、
抽象的な宇宙全ての概念も含んで、宇宙というそれ自体のうちのもの
だということをまず知って置く必要があるだろうということです。

とはいえ、そんな宇宙の、さらには物理現象世界という檻に
閉じ込められた我々にも、ある種の想像の中では無限定で自由である
という希望があるだろうと思います。

精神世界、抽象世界であれば宇宙を客観的にみられるかもしれない。

しかし、実はその概念すらも宇宙の一部であり、
さらにいえば、一個の人間という生物の周辺に発生している過ぎない
自然現象の一部である、と。

なんと知的に無力だろうか、と感じられるかもしれませんが、
実際、我々人間という生物の持つ知性の範囲は、我々人間に限っていえば
ほぼ無限といって良い可能性があるでしょう。


さて、閑話休題。

上に投げた石が下に落ちるのはなぜでしょう?

それは、地球に重力があり、石はそれに引かれて落ちるからだ。

それも一つの心理でしょう。

大人なら勿論、ちょっと理科の勉強をした小中学生程度に聞いても、
その程度の答えを返してくれると思います。

では、そういった前提知識を何も持っていない子ども、
例えば赤ん坊に同じ質問をしたら、何と答えるでしょうか。

この際、赤ん坊が言葉を理解できるかどうかは無視します。

とにかく、石を上に投げて下に落ちる、という現象を見たとき、
何も知らない赤ちゃんは、その現象についてどう感じるか。

「石が落ちたがっているからさ」

とあるテレビ番組の中で、アインシュタインの問いに
子どもがそう答えた、というくだりがあったのですが、
これはこれで真理を得ているのではないかと思ってしまった。

要は、特に何も考えなくても出てくる答え。
実はそういうものの中に、的を得ている何かがあるのではないか。

おそらく、最終的な宇宙の真理などというものがあるなら、
それは誰でも殆ど説明不要で理解できるものでしょう、と。

そうしたいから、そうする。そうなりたいから、そうなる。

そういう自我に内在した欲求を発露することが、
あらゆる現象の動機となり原動力となっているのではないか。

これは、生命の根本的な存在理由となり得るもので、
そこに発現する全てのものに、ある種の意味を与えるものです。

生命が生きること自体に意味はない。
また、それが存続しなければならない理由もない。
そもそも、この宇宙が存在する意味も理由もない。

ただ、そのような欲求があるだけだろうということ。

これは、いわゆる生物だけが持つ性質ではないのではないか。
その欲求の概念の拡張が“生命宇宙”のひとつの側面でもあります。

但し、宇宙に人格的な意思なり精神があるというわけではなく、
いわゆる宗教的な“神”の存在を肯定するものではありません。

ただ、人や生物は、宇宙の性質の一部を表現している片鱗であり、
宇宙のフラクタル的構造の中で、その外縁である宇宙というのは
人や生物を拡大した存在であるということもできるかもしれない。

その意味では“神”と等価であるかもしれませんが、
それは人が人に求めるような感情や善悪などはないということ。

そもそも、人が存在しているということ自体曖昧な事象で、
人間社会が確固たる現実であるという証拠は何もありません。
この世界をこのように見ているのは、最終的には自身の認識です。


 精神とは全てにして一なるもの。
 時空を必要としない精神がそこにはある。


これはオーストラリア原住民の間に語られている土着信仰ですが
ここでいう“精神”というのが“生命”それ自体ではないか。

オーストラリアに限らず、あらゆる国や地方で古来から語られる
このような伝承や信仰というのは、往々にして似たような内容で
そこに具体的な人格神はなく、形のはっきりしない、
何か元素のような精神的なものを崇拝するような傾向があります。

面白いですね。

近代の宗教は、まず何か偉大な人格神をつくり上げ、
人はその神様を崇め、頼り、無償の救いを求めたりもします。
つまり、今の殆どの宗教は、人の心の救いを求めるところに
その存在意義があるといえるでしょう。

それに対して、古代の人は特に何か救いを求めたりしておらず、
どちらかといえば、自然とはこうあるのだ、というような内容で、
だからこそ、真っ直ぐ自然を見つめたものが伝えられている。
そんな気がします。

そして、その域に人が達することは到底できない、
という謙虚さもあり、それは、人が宇宙というものの一部に過ぎず
物理的にも、精神的にも、その内側のわずかな部分しか
我々の目に触れることはないということを悟ったものかもしれない。

ただ、逆転の発想で、我々がその宇宙の一部であるならば、
それは全体を引っ張り出せる緒にもなるのではないか、と考えて
そこに突っ込んでみようかな、というのが“生命宇宙論”なのです。

あくまで「みようかな」。


見方を変えるだけで、別の側面が見えてくるということは、
これまでの科学史の中にも多くありました。

アインシュタインの「相対性理論」などはその典型で、
時間も空間も絶対的なものではない、と考えるだけで、
あらゆる物理現象をより柔軟に見ることができるようになった。

重力と、加速度による慣性力は、実は同じもので
見え方の違いは、足場をどちらに置くかの違いだけだったりする。
こうして何か固定した観念を取り除くことで見えてくるものがある。

同じようなことが、この宇宙(という現象)の中には
まだ多くあると思うし、みんな同じように考えてるでしょう。

ただ、その固定した観念というのがなかなか頑固で
一旦それが偏見や常識として身につくと、強力なフィルタとして
我々の本来の認識を遮断してしまいます。


実は見えていて、見えないもの。
それを見つけることが、謎に迫るポイントのひとつとなるでしょう。

みなさん、こんばんは。

今回は、ライフスフィアの考え方で宇宙をみた場合に、
今までの宇宙観とどう違うのかについて考えていきます。

現在の宇宙論の大まかなシナリオは、
量子ゆらぎから宇宙の種が生まれ、それが急激に膨張し、
火の玉宇宙(ビッグバン)を経て、
現在のような姿の宇宙になったのだ、というもの。

最新のWMAP(背景放射観測衛星)の観測データの分析で、
宇宙の年齢は約137億歳であることが判明しています。

そして、宇宙はその137億年で完結しているのでなく、
今もなお進行形です。

ところで、進行形、とは、どういうことでしょうか。

それは、時間が過去から現在、そして未来へと流れており、
その流れに従って事象が原因から結果へ移り変わり、
その結果がまた新たな事象の原因となる、
この繰り返しが延々と続いている、ということでしょう。

このことは改めて説明するまでもなく、
私たちが過去を記憶していて、その上で現在を経験し、
それがまた過去の記憶となっていくことから、
この一方向的な流れを持って時間の経過と認識し、
これはまず何よりも先んじて認めるべき理である、
と感じているはずです。

実のところ、私たちの持っている“私”という認識は、
時系列の記憶と経験に由来するところが大きくて、
それがなければ、たった今この世に生まれた状態になり、
まず“私”ということすら認識することもできないでしょう。

これは宇宙自身も同様で、火の玉から始まり、
そこから表出した様々な事象を“経験”し、
それをいろいろな形で“記憶”しているからこそ、
現在の宇宙のアイデンティティがある、といえます。

“経験”とは、物理現象そのものであり、
“記憶”とは、宇宙背景放射であり、宇宙の大規模構造であり、
星や銀河であり、それを形成している物質や力、
そしてエネルギーや時空それ自体です。

その記憶を、私たち人間が観測によって見つけ出して、
その経験を探っているのが、現在の宇宙科学であるのですな。

そしてその記憶は、そのまま人の記憶としても残っていく。

人の記憶というのも、結局のところ、
私たちの脳の中で起こっている物理現象の結果です。

人はよく、自分たち人間というのは、
地球という閉鎖空間で誕生した特別な知的生物だと考えますが、
人を構成している物質というのは、
過去に宇宙空間で生成された星やチリの成れの果てです。

つまり、私たち人間という実体そのものも、
宇宙にとっては記憶の一部であるということになる。

記憶というのは、人の脳内でのみの現象と考えるのではなく、
宇宙全体の記憶もあるのだ、と考えた場合に、
私たちの記憶という現象(その原因を含んで)は、
宇宙の記憶自体を構成しているということになってくると。

即ち、私たち自身が宇宙の構成要素となっている、
ということです。

このことは、私たちをの身体を構成している事物についても、
同様のことがいえます。

私たちを構成している、炭素、水(水素と酸素)、鉄、
リン、カルシウム、マグネシウムなどの物質は、
さらに分解すると陽子や中性子、電子などの素粒子となり、
それらもさらに分解することが可能だとされています。

それらのモノや力たちは、
何も私たちの体を成立させようとしているわけではなく、
それぞれが持つ性質や機能に従って振舞っているだけです。
その結果として人間という生物が表象して、
その人間(の脳)では記憶なる現象も発現している。

それらの物質、素粒子、そしてさらにそれらを構成するブロックは、
相変わらず宇宙の構成要素です。

はっきりとした法則性はみえないのだけれど、
とにかく、何かの構成要素が別のものの構成要素になっていて、
それがどこまでも似たような構造になっていて、
同じような役割と属性と現象を伴っている、その連続である、
というような姿が、ここに漠然と感じることができませんか。

そして、その現象に“端”はないのであり、
構成要素が、自らの構成要素に帰ってくるような構造をあてると、
始まりと終わりの問題を心配しなくてもよくなります。

137億年前に宇宙が誕生した、というのは、
人間などの生物でいう誕生の時期であり、
それを生んだ母体は当然それより前からあるわけですね。

みなさん、こんばんは。

だんだん怪しい世界になってまいりました。
もとより怪しい、という意見には「その通り」といっておきマス。

私は、生命宇宙の「生命」のことを、
ずっと「システム」だといってきました。

これは、生命というのは「モノ」ではなく、
生物に代表されるあの概念でもなく、
宇宙全体を包括しているそのようなもの全体、
ということを強調する意味でシステムといってきたんですが。

どうもこの考え方自体は、
業界(?)では結構当たり前な考え方のようです。

で、今ここでいわんとしていることは、
「生命」ではなく、「生命宇宙」であるのだよ、ということで。
つまり、「生命」と「宇宙」は不可分であると。

でも「生命宇宙」というと、やっぱり2つに分けて考えてしまうので、
ちょっと格好よくカタカナで「ライフスフィア」といっておきます。

つまり、

 宇宙全体はライフスフィアであり、
 その構成要素もまたライフスフィアである。

例えば、オートポイエーシスという考え方があります。
(“APS”と略しておきます。)

生命の構成要素同士の有機的なつながりを、
自己組織化するようなシステムの定義(?)だったと思いますが、
(正確な意味については保証しかねるけど)私の解釈を書けば、
生命というのは、自分で生まれて自分で自分を作り出す、
それ故に生命の構造はどこまでいっても同じ構造になっている、
という話だったと思います。

うへぇ。何のこっちゃ。

要は、生命というのはどこまで切り刻んでも生命なんだゾ、
(そういうメカニズムの金太郎飴のようになっている)
ということだろうと。

で、これを突き詰めて論ずるときにややこしいことがある。

それは、創造者と被創造者が同じである点で、
これがこの論説のキモでもある“円環的”構成の説明の難しさ、
ということになってきます。

とにかくここは、創られるものと、それを創るものは、
同じ要素であり、同じシステムである、と考えてくださいまし。

人間から生まれてくるのは人間だ、ということです。
(こう書き下しちゃうとアタリマエだ。。)

で、ライフスフィアもAPS的であり、
(とりあえずここでは、APSそのものとは断言しないでおく)
ライフスフィアから生まれるものもライフスフィアであり、
それはライフスフィアと同じ属性と構成である、と。
ここで、生む側と生みだされる側は区別しません。
(ここがややこしいところ。)

それをどうやって説明するか、です。

みなさん、こんばんは。

 それを述べようとしなければ、それを知っている。
 それを述べようとしたら、それを知らない。

これは、
かつて聖アウグスティヌスが「時間」について表現したものです。

論理で語ることはできないけれど、
そのようなものを実は最初から知っている、ということを、
あえて表現すればこういう言になるのではないかと思います。

私たちは、全てのモノゴトを言葉で表現しようとする。
ということは、言葉で表現できないものは、
どうしても表現できないのか。

とりあえず、何かを見たり聞いたり触ったりすることを考えてみる。
具体的な方が良いので、例えばその対象は“リンゴ”とします。

そのリンゴを見たときの感覚。触ったときの感覚。
私たちは無意識に、その“生”の感覚の中から、
言葉にできるものだけを抽出しています。

「赤い」とか「硬い」とか。

その表現がそういう言葉になった時点で、
それ以外の感覚が切り捨てられてしまっていることに気づきますか。
リンゴには、「赤い」とか「硬い」といった、
言葉に置き換えられる表現にならない感覚もあるでしょう。

実は、科学というのは、
私たちがそれまで表現できなかった領域のものを、
私たちが表現できる領域に持ってくる作業です。

ここで、
“表現できない”ということと“知らない”ということは、
同義ではありません。
表現できなくても、私たちはそれを知っているから。

リンゴの持つ属性のうち、
言葉で表現できるものは「赤い」とか「硬い」などの、
言葉として既存しているものだけですが、
それ以外のリンゴの持つ質感のようなものも、
私たちは感じているはずです。

ただ単に、それを言葉にできない、ということ。

つまり、表現可能にするということを言い換えると、
その感覚に該当する言葉を割り当てること、でしょう。


前回、“生命宇宙論”が理論であるなら、
それは論理的に説明されるものでなければならない、
しかし、世の中には論理にならない事柄もある、
どうすんべ?というところで終わってました。

上記のことを考えると、言葉になっていない表現があるなら、
何か適当な言葉を割り当ててやれば良さそうかも、
と思えます。

実際、科学のさまざまな解明の際には、
新しい言葉が発明され、その物質や現象に名付けられてきました。

全て物質を形成している粒々は“原子”と名付けられ、
それはさらに小さな粒々でできていることが解ってくると、
そのさらに小さいやつは“素粒子”と名付けられ、
粒々では説明できない波っぽい考え方もいるとわかれば、
とりあえずそのような量を持つ“量子”と名付けられ、
以下云々。。。

結局、科学的発見というのは、
同時に、そのモノゴトが命名される、ということです。

名前がつけば、私たちはそれをその名前で、
即ち、そういう言葉で表現することが可能になります。

ならば、“生命宇宙”も、
何か新しい表現(言葉)で説明すればよろしい、と。

しかし、そう単純にはいかない。
言葉で何かを表現するということ自体が持つ、
ゲーデルなどが指摘する欠陥は解決しません。

みなさん、こんばんは。

今回は、論理によって宇宙を説明する、
ということについて少し眺めてみることにします。

一般的に何かの問題解決を図るときに、
その回答として出てくるものは、
ある論理体系に従って説明されていなければならない、
とされています。

自然科学は特にそうですが、
形而上学的な分野、いわゆる哲学の分野でも、
この点は無視できないでしょう。

つまり、論拠はなくとも、
最低理路整然としていなくてはならない、ということ。

そもそも、哲学と科学の根は一つでして、
古代から世界や人の成り立ちやその真理について
いろいろと考える分野が存在していて、
それをひとことでいうなれば“哲学”だということですな。

後に事実や事象を中心とした、
実在的、実証的な知識や経験(論拠)の積み重ねによって、
世界が実際にどうあるのか(事実)を語り始めたのが、
今で言う“自然科学”の分野であると。

さて、前置きはこのへんで。

まず、この宇宙(のあらゆるモノゴト)を眺望したときに、
その発生の主因、起源、本質は、
複数の何かに由来するか、単一の何かに由来するか、
という点において考え方が大きく分岐します。

その意味では、生命宇宙の根源は“生命”であるので、
宇宙の由来はひとつである、という分類になるでしょう。

じゃあ、その“生命”なるものの由来は何か?
という疑問が出てくるんですが、
ここがこの論の一番面妖トンデモな部分でして、
生命が一番の根源なのだから、
それの由来なんかないんだ、という話になります。

ということで、
やはりその“生命”に関する説明責任が生じるわけですが。

そもそも、今の自然科学に立ち返ってみたとき、
力が4つに分類されること、
モノを形成しているのが粒なりヒモであること、
それらが存在する場は複数次元の広がりを持つ時空であること、
こういった前提、というか定義は、
実験、検証によって得られたものというよりは、
そう想定して実験したり計算すれば理屈に合うようだ、
という都合上のものであるような気がしています。

生命はとても抽象的なものだけど、
では、何かを理解しようとするときに、
それが果たして数値や数式などといった、
何か具体性のあるモノである必要があるのか?
といってみるテストというか。

多くの理論は、何かを前提して、
その前提が正しいならば結論も正しいはずだ、
という論法をとって説明しています。
(アリストテレスの三段論法)

ただ、こういう言及の仕方には重大な欠陥がある、
ということも、ゲーデルなどによって指摘されていて、
正しい(矛盾のない、反証できない)理論は、
その理論自身によって説明することができない、
その文脈の中に登場する言葉それ自身については、
その文脈の中で説明することができない、
などという、言語の罠のようなものがいくつかあって、
(ゲーデルの不完全性定理)
その意味では、何かについて考える際の道具である
言葉(数、数式、つまりそのような記号表現)についても、
若干の怪しさが噴出してくることになるわけで。

かといって、私たち人間は、言葉や数式以外に、
何かについて述べる(表現する)方法を知りません。
ぶっちゃけ、私たちにできる範囲で最善を尽くしている、
ということになるのですな。

でも、そういう理詰めのことじゃなくても、
人間にも理解できるコトがあります。

2018年2月

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