自分の存在って一体何なのか、なんてしみじみと考えたことはあるだろうか?

宇宙が誕生して、気の遠くなるような長い期間を経て進化し、やがて生命が誕生し、人間が登場する。それさえあらゆる可能性を考えれば、本当は宇宙の終わりまでかかってもあり得ない部類の出来事だったわけで、いうなれば、プラモデルの部品を全部箱の中に入れてガシャガシャと振り回して箱を開けたら、そのプラモデルが見事に完成していた、というようなことが起こるようなものだという。

宇宙の長い歴史の中に、自分という人間が存在している。一体、この自分という意識はどこからやってきたんだろうか?なぜ今、ここに存在しているんだろうか?やがて、有機生命体である宿命としてその生を終えるときが訪れる。その後、自分という存在、その意識は一体どこへ行ってしまうのだろう?生死にかかわるような出来事に直面してみないとなかなかこういうことは考えないし、考えても大した意味はないかもしれないが、その辺は永遠の謎だけに非常に興味深い。

自分がここに存在している、というのは偶然か?そのあたりから考えてみても一概に「偶然である」ともいえないのかもしれない。例えば、宇宙全体を説明できる法則、理論などというものがあったとすれば、自分という存在が登場することは最初からその法則によって運命的に決まっていたのかもしれない。あるいは、宇宙そのものに意志があって我々を登場させたのかもしれない。この辺は「神」的存在の問題になってくる。

ただ、現在知られている「量子力学」という物理学の考え方で、不確定性原理というのがあって、物事の動きというのはある確率を持った値でしか指定できないという前提がある。正確にある出来事の発生を予測はできないということ。物事はカオス的にしか測れないわけだ。となると、やはり自分という存在は偶然そこにいることになる‥‥。

宇宙論の考え方の一つに「人間原理」というものがある。これには強弱の2種類があるが、今宇宙の状態を知ろうとするとき、なぜ宇宙は今見ているような具合になっているのか、という問いに、そういう具合になっていなければ我々人間は存在していないだろうからだ、というのが弱い人間原理で、さらに我々が存在するように宇宙の設定がなされているのだ、とするのが強い人間原理。例えば、なぜ宇宙は四次元時空連続体なのか、といったとき、二次元では全て平面で生命活動を行うのに必要な体型が形成できないだろうからだ、と答えるわけ。

いずれにしても、自分の存在そのものについては謎のままだ。生命活動が終われば、自分という存在の意識もなくなる、そうなればその存在が認識していた宇宙も終わるわけだ。もちろん、他の存在が同じような宇宙を認識し続けるのだろうが。生命が終わったからその意識も終わる、もしかしたらそうではなく、意識は別のところで再利用されているんじゃないか、と思うこともしばしばある。もちろん、記憶は全て消えるが、別の存在の中に吹き込まれる、「命」とも呼ぶべきものとしての存在もあるように思う。時々、前の記憶があるきっかけで蘇ったりして、それをデジャヴと呼んだりしたり。仏教の輪廻転生の話に似ているが、では、生命が全て宇宙から消えた日にはどうなるのか、と問われると、また回答に窮してしまう。

心は物理学で解釈可能だろうか?物理学というのは、物質、力、エネルギー、それらの構造や関係を、一つの筋の通った理屈で説明しようという試み。およそ世の中の動きは、最終的にこの物理学が"心"を解明する、という向きのようである。つまり、脳という構造物、或いは、それを作る原則である物理法則を徹底的に研究すれば、いずれ"心"も説明できるだろう、と。

ところで、"心"を説明できた、とは、何をもってそういえるのか?心の発生原因が突き止められたら?心のメカニズムが解明されたら?心の導く思想が分かったら?心の操り方?それら全部?物理学は、確かに脳内の物理的メカニズムを説明することはできる。確率統計的に、インプットに対するアウトプットを予測することはできるだろう。また、ペンフィールドよろしく、人の脳をいじくってみて、ここをつつけばこういう反応がある。なるほど、この部分のこういう反応が、心のこういう働きに関係があるらしい、と。こういうことは、いずれはかなりの高精度で予言することはできるようになるだろう。ペンローズ氏などは、心のプロセスなど分からずとも、数式一発でポンと表現できればいいや、というスタンスのように思う(E=mc2みたいに)。果たしてそれで心が分かった、といって良いのか?

要は、どうすれば人間を納得させられるか、ではないだろうか。実際に"心"を持っている人間が、他人に「心とはこういうものだ」と説明されて、「おお、その通り、なっとくなっとく」となるか「あんた、何も分かっちゃいないわね!」となるか。前者を目指せど、いつまでも後者にとどまっているのが現状。女心どころでなく、基本的な"心"さえ私たちはまだよく分かっていない。

例えば、コンピュータが演算処理をする、という現象を考えるとするなら、"コンピュータ"が"脳"、"演算処理"が"心"なのか?私にはこれでも合点いかない。演算処理は、一つの入力に対応した結果が決まっている。規則がある。ところが、心はそうはいかない。全く同じ入力を同じ"脳"に対して行っても、アウトプットは決まっていない。これは、規則と条件がとても複雑に絡んでいるからそうなのだ、と説明するのが複雑系か。しかし、それを究極まで突き詰めて"心"が判然とするか、と考えると、そうでもない直感がする。どうも、分かるのは脳内の物理的構造なり現象であって、それが起こると、なぜ"心"が生まれるのか、これが難問なのである

ところで、なぜ人は物理学を採用しているのか、と考えてみる。とりあえず、"心"という正体不明のものを扱うにつけて、既知の理論体系である物理学を足掛かりにしている、というだけなのかもしれない。実際、ものの道理を説くにあたって、物理学が自然科学のデファクトスタンダードな思考方法だということは大きいと思う。これが、他の思考方法、例えば哲学や宗教のような形而上にとどまっているようなものでは駄目だということだろう。その意味で、物理学の他にないからそうしている、と。

人は科学的に何かを説明されてそれを納得するのは、それが実証可能だからである。科学の名の元に法則化されているものは、100%の確率でその現象を再現することが出来る。つまり、インプットに対応するアウトプットが、ある理屈なり式なりでズバリ予言されていれば、ビンゴ!となるのである。しかし、世の中、そう簡単なものばかりでもない。考えてみれば、このような"完全な再現性"などというものは、数学にはあれど、物理学にはない。あたりまえに認識している単位、例えば30センチの定規が、確実に30センチ丁度であるかなんて実に疑わしい。というか、世界最高の分解能を持つ電子顕微鏡で見ても、幾らかの物理的誤差は伴っているはずだ。

実は、"心"の本質も、そのような(現代の)物理学の隙間に本質をおいているのかもしれない、とも思う。或いは、ひょっとしたら、人間の持てる感覚器で何かを知る、ということに限界があるのかもしれない。いや、これは確実にある。例えば、二次元の世界に暮らす知的生物がいたとして、彼らには物理的に三次元の世界を認識することはできないのか?という問題。多分、二次元(平面)の生物には三次元(立体)を物理的に経験することなどできない。ということで、彼らは彼らの知識を総動員して、何とか三次元の世界を理解しようとする。でも実質性がない(感じることができない)。同様のことが、今の私たちにもいえる。科学全般、所詮限定された人間の認識を言葉にしているだけであり、認識できないものは言葉にさえできない。認識されていても言葉にできない。まさにそれが"心"ではないか。

全く答えが出そうにない。しかし、それでも基本的に私は、"心"を考えることと、物質やエネルギーについて考えることは同等、と考えている。"心"も、結局物質からなる私たち人間という生体の中で起こっている現象である。つまり、そのような現象が、何らかの物理法則によって引き起こされていることには間違いないはずなのだ。"心"が解明されない、ということは、即ち、物質やエネルギーなどについて解明されていない、ということであろうと思う。

SFなどで"パラレルワールド(並行世界)"という世界が登場することがある。よくある設定が、私たちが暮らしているこの世界にとても良く似ているが、どこか微妙に異なった部分を持つ世界、主人公などの主観で見る場合、その主人公が人生において何か選択をする度に、その選択肢の数だけそこで世界が分岐している、というようなものである。

実は物理学にもこれに似た考え方がある。エベレットという学者が唱えた"多世界解釈"と呼ばれる世界観がそれである。これは、量子力学の考え方の拡張であり、現在メインストリームとなっている量子力学の解釈と競合する形で、現在に至っている。

量子力学では、物質やエネルギーなどを、ある種の"波"として解釈する。誤解なきよう、ここでいう"波"とは、あくまで量子力学の世界で考える波であり、古典論で述べられるような縦横に広がって伝わるあの波ではない。量子力学的な波とは、簡単にいえば"確率の波"である。何かがそこに存在することを、それが存在する確率で議論するのだが、このときの"何か"の位置と運動量というのは同時に特定できない、という、ミクロ世界を扱うときの要請がある(不確定性原理)。このことから、その"何か"の存在について、量子力学では確率的に見ることになる。そのような状態を表現する道具として"波動関数"というものが用いられる。

多世界解釈の前に、まず、現在スタンダードな量子力学では、世界をどう解釈するか、ということを考えてみる。例えば、ある一つの電子がある場所に存在することを、観測という行為をするまで、不確定性によって確率的にわーっと広がったような状態で存在する、と考える。それを実際に見るまでは、それが存在しうる場所に確率を求めて、その広がりで解釈するのである。このような状態を"電子雲"と呼ぶ。そして、その電子を、何らかの方法で観測したとする。このとき、仮にその位置が特定されたとすると、それまで広がっていた雲は、その観測した一点にシュッと集まることになる(運動量でも同様)。これを"波束の収縮"というが、要は、それまで確率分布として見ていた電子を、観測という行為をした時点で、電子の存在が現実の事象として確定する、というわけである。このような解釈は"コペンハーゲン解釈"と呼ばれており、現在の量子力学のメインストリームとなっている。

さて、対抗馬の多世界解釈ではどうか?その電子の存在を確率分布として見るところまでは、コペンハーゲン解釈と同じである。問題は、それを観測するという行為が発生した時点から後である。多世界解釈では、それを観測しようがしまいが、その確率分布は持続している、と考える。どういうことか?例えば、ある一点にその電子の位置を特定したとき、それ以外の可能性が消えるのでなく、やはり、その観測者には認識できない世界で続いている、と考えるのである。そんな馬鹿な話はない。私たちの世界に認識できないのだから、それは"ない"ということではないか。確かに、そう観測した観測者の世界にはないが、その観測者以外の観測者の世界には"ある"のである。つまり、多世界解釈では、観測者をも巻き込んで確率解釈しているのである(観測対象だけでなく、観測対象とそれを観測する観測者が存在する時空全体もその波動関数に含まれている)。そうなると、確率がゼロでない限りの可能性は、全て同時に存在していることになる。可能性のある限りの世界が同時進行しているのだ。まさに"多世界"。

考えてみれば、この考え方は的を得ている。観測対象も、その観測者も、もとは同じ物質からできている構造物である。それらを差別して解釈する理由はどこにもない。誰かが特別扱いを受けるのは納得いかん、という方には、この多世界解釈は馴染みやすいか。もともと、この多世界解釈は、何故観測した時点で突然波が収縮するのか?という問題を解決する為に考案されたという印象がある。その意味で、現在のスタンダードな量子力学を一歩踏み越えた先進的な理屈、といえるかもしれない。

運命はあるのか?つまり、すでに宇宙、ひいては我々人類のたどるシナリオは既に完成されているのだろうか?という問題。これも神に関連してくる。よく「ラプラスの悪魔」の話が引き合いに出される。初期状態が正確に理解できれば、その先は完全に予測可能である、というのは、ニュートンの運動方程式によって全ての運動は計算で導けるという仮定から、ラプラス卿が定義した説。ここから、もし、全て世の中の状態を完璧に理解できる者(悪魔)がいたとしたら、未来は全てその悪魔によって予測されている、としたもの。こうして私がこんなことを書いていることも、ラプラスの悪魔によって既に予測済みだったことになるわけだ。

これを破ったのが量子力学だ。ミクロの世界においてはニュートンの運動方程式では正確に運動を記述できない、不確定性の及ぼす影響を考慮する必要がでてきたことで、未来予測は完全には不可能になったのである。ただ、これは人間が現象を観察する、つまり見るという行為を伴った場合の話で、実際にはそれを見ようが見まいが何かがそこで確実にある法則のもとで起こっている、と考えられる。我々人間は、この現象を確率に置き換えて解析しているにすぎない。光、また電子などを媒体にする以上、人間の観察領域には限界がある。

カオスという概念がある。小さな擾乱が予測不可能な現象に結びつくかもしれない、この辺も我々人間の未来予測を困難にしているのだ。もし、人類に今以上のものの見方ができるようになったら、あるいはラプラスの悪魔が復活するのかもしれない。

いずれにしろ、人類はまだ全てを見切れていない。言ってみれば、ルールも分からずにチェスの対戦を見ていて、次第にそのルールやコマの動きを理解しているような状態。チェスとは我々の宇宙であり、ルールとはその宇宙の統一法則になるだろう。もしも、そのルールを決定する存在が"知性"として存在するならば、それが"神"に他ならない。

人類がこの宇宙に誕生したのは何故か?また、今人類は宇宙にとってどのような存在なのか?今、地球上で人類の動向を見る限り、あまり良い印象はない。確かに、科学技術は進歩し、巨大な文明を築き上げているが、その裏で、人類以外の生命に対する考慮があまりにお粗末で、人類さえ栄えることが出来ればそれでよいという感がある。

例えば、宇宙というシステム内に、害となる存在が侵入してきたとする。そこに自然治癒力などというものが存在するなら、それによって有害な存在は排除される。つまり、もしも宇宙が宇宙自身を守ろうとしているなら、面倒なことはせず、無益なものは容赦なく消去し、有益なものを存続させていこうとするはずである。有神論で考えるとして、もし神がいるとしたら、無益なものを残しておくことは不合理であり、消去されてしかるべき、というのが私の視点というか、考え方だ。

そこに人間という存在を考えたとき、それは宇宙全体の利害とどう絡んでくるのか?もし、人類が何らかの自然の力によって排除されようとされているなら、宇宙にとって有害な存在といえるかもしれない。だが、今の時点で、それはまだ未知数だ。例えば、宇宙の利害基準とはどのようなものか?このあたりを探ることで、人類の未来も見えてくるかもしれない。宇宙に到達目標があったとすると、それにより効率よくアプローチするために何をすべきか、それに対応する利害の相関関係、というのが判断基準になるのか。

ただ、局所的に地球上ということだけを考えたら、人間はあらゆる生物のトップに君臨した気になって、やりたい放題である。このままズルズルいってしまったのでは、地球全体の生命の死活に関わることは明らかだ。

人類が宇宙にとってどのような存在になるのか?この辺は人類の最終目標を考えることにもつながってくるようだ。宇宙に意志的性質があるなら、それは合理主義的なものであろうと思われる。今はあくまで進化過程の一時点なのだと見る。つまり、宇宙は一発でパーフェクトなものを作ることはできない、やはり成長、進化の過程は必要だ、と考える。(これは進化宇宙論という)今は進化過程で、あらゆる"揺らぎ"が生じている状態なのではないかと見られる。

考えるべきは、宇宙と人間全体との関わり合い、宇宙の目的達成にどう人間が絡んでくるのか(また人間には触れることさえできないものなのか)というあたりだろう。私も人間なので、その人間がタダで終わるような存在であって欲しくないと願う。

宇宙がある生命を誕生させる。それが有意義なものであるかどうかを判断する場合、その生命がトータルで効率的(合理的)かどうかだろうと思う。どのような形態の生命が最も効率的、合理的か?いってみれば、地球はそれを試す一つの実験場になっているのかもしれない。こうした形態の生命を誕生させたらどうなるのか、そこに別の形態の生命を加えたらどうなるのか、こうしたことの繰り返しで生態系が最適化されてきているように思う。

地球上に単純な有機生命を誕生させてみる。最初はバクテリアのような単細胞生物だったけど、ここから自らエネルギーを作り出す植物性バクテリアと、出来合いのエネルギーを摂取する動物性バクテリアを共存させてみる。多細胞生物をつくってみる。有性生殖種をつくってみる‥‥。こうして、さらに多様な生命体をつくってみて、どれが一番効率の良い生命かを選択していく。

人類の誕生は、また新しい段階の実験であるように思う。人類は知性を持ったことで、ただ生きているだけの生命ではなくなったわけだ。未知に対応できる、思考できる、計画性を持つ、こういった能力は他の生命体にはないもので、これによって、生命がようやく宇宙に目を向けることが出来たのだ。

自己とは何か。身体的なもの、精神的なもの、そうしたところ以外にも自己というものが見いだせる。その一例として、免疫的自己がある。免疫とは、病原菌などから自己を守るシステムとして知られているが、それは自己と自己でないものとの判別を行うシステム、ただ病原菌だけをより分けているのではなく、自己とそうでないものを区別し、そうでないもの、つまり非自己と認識されたものを自己の体内から排除するシステムでもある。精巧にこのシステムが作用して自分が自分として生きていける。

キメラの実験を例に考えてみる。キメラとは生物学でいう合成生物のこと。実験では、ニワトリとウズラの受精卵を使い、それを神経管ができてくる時期に、ニワトリの神経幹を取り去ってウズラの神経管を埋め込む。そこから脊髄ができ、末梢神経が伸びるわけだが、そうするとニワトリにウズラの羽が生えたような生物が発生する。こうして、しばらくはニワトリとウズラが一つの個体の中で両方自分であるかのように振る舞うのだ。神経幹とはその生物の形態を決めるはたらきを持っているが、では、神経幹ではなく、脳を取り替えてみたらどうか?ニワトリの受精卵の脳になるであろう部分を取り去って、ウズラの脳になるであろう部分を埋め込んでみる。そうすると、脳はウズラで体はニワトリというキメラができる。これは、一種の移植実験で、ベースとなる体にある部分を移植すると、その部分だけ別の形態を持って生まれてくる。脳を移植された場合も然りで、脳だけウズラで体はニワトリ。では、自分がニワトリなのかウズラなのか自己で判別できているのかが問題になる。

実験では、そのキメラが、ニワトリではなく、ウズラのような鳴き方をした。このことから考えると、やはり自己は脳にあるかのように思われる。個体の行動様式を決めているのは脳である。つまり、それは自己であり、自己は脳にあるといえる。しかし、これが成長すると、ニワトリの免疫システムが働きはじめ、ウズラの脳を非自己と見なし攻撃しはじめる。やがてこのキメラは死に至る。ここから考えても、一体自己とはどこにあるのかという問いには完全に答えられていないのだ。脳については後でも述べる。

ところで、キメラの実験は、ヤギとヒツジでも試されているようである。そして猿と人間、なんてところも研究されているようだ。今、豚に人間の臓器を持たせ、必要な部分だけ豚から人間に移植する、そうしたファームビジネスも既に実験段階にあるという。前向きに見れば、これで慢性的な移植用の臓器不足が解決される。実際、ヒヒの肝臓を人間に移植する医学的治療は米ピッツバーグ大学で行われた。

免疫はどこで自己を判別しているのか?ここで、遺伝子的自己という点が問題になる。人間の細胞は約60兆。46個の染色体で構成されるDNAは、約30億の塩基対からなっている。そのわずかな違いで人間は様々な個性を持ち、多様な考えも持てるようになっているのだ。

DNAにはその個体の様々な情報が入っている。この中には病気の情報も入っていて、現在、遺伝子を調べることで様々な病気の診断を行うことも可能となっている。これに続いて、遺伝子治療も進歩させるべく現在研究が続いている。遺伝子を見ることで、その個体のおおよその潜在能力はみることができるという。先天的に持つ病気や、将来高血圧になるかもしれない、糖尿病になる素質がある、なんてところも分かってくる。おそらく、その人の素質、例えば運動能力、知能や向き不向きなんてとこも見透かすことができ、寿命までも分かってしまうかもしれない。さて、そうして見ることのできる自己は、確かに真の自己かもしれないが、果たして精神も遺伝子に依存しているのかどうか?

そこで考えるのは、精神とは一体どこにあるのか。自己の全ては脳にあり。そう考えることもできるが、果たして本当にそうなのか?例えば、脳だけで自己を確立できるかどうか?脳は、何もないところから何かを作り出すことはできない。手足と切り離して、果たして脳だけで存在していけるかと言えば、実はそうではない。脳は、様々な体の部分からの刺激を受けて反応している。そこから思考を得、発展させることでものを考えるという作業をこなすことができる。例えば、とんでもない化け物を想像しようとしても、どこか見たことのあるものの合成でしかない。見たり、感じたりしたことのあるもの、つまり経験からしか事物を生成できないのが脳なのだ。そこから想像を発展させることはできるが。真っ暗で何もない中に、ぽんと意識のみが放り出されたとしたらどうなるか?言ってみれば、何もない空間に神様がいるのと同じような状態。さて、神様はここからどんな世界を作っていけるのか?そう考えると、今ある世界を作り上げた神様の自己は脳にはなかったことになるのではなかろうか。

しかし、外界を認識し、自己を認識しているのはやはり脳だ。自己が何処にあるかといわれれば、やはり脳なのか?例えば、幻を見ても、それはその自己にとっては事実であり、認識なのだ。直接刺激を脳に働きかけることで快楽を得る、このような薬が近年日本でも販売されるようになり、社会に波紋を呼んでいる。感情を薬でコントロールできる、擬似的快感、この辺も自己がどこにあるのか考える上で複雑なところでもある。

自己といえば、哲学では頻繁に議論される機械的自己というのもある。機械は心を持つことができるのか?そして自己を持つことはあるのか?人工知能の研究を進める上で、この辺りもその研究の対象となっている点である。もし、自己なるものが分かったとき、自己をもつ機械というのも誕生させらせるだろう。

自己とは一定ではなく、一種の過程であると考えることもできる。生まれたばかりの赤ん坊と、その人が老人になったときとでは、身も心も変わっていく。実際に身体の細胞は常に入れ替わってる、それが常に同じであるように見えているのは、その設計図が同じだから、DNAがしっかり監督しているからだ。内面的によく自己を見つめ直したら、その精神、考えはその後の経験によって変化していく。昨日の自分は今日の自分とは別人であり、明日の自分もまた然り。

驚くべきことに、アメリカで、将来医学が発達して、いずれ人工的に人体を作り出せる、あるいは再生できることを予期して、死後、脳だけを冷凍保存している、などということが行われている。そういう人々は、脳に自己があると信じてそうしているのだ。ただ、私には、自己というものがそう単純なものには思えない。

時間とは何か?あまりに当たり前すぎる概念だけに、いざ、その言葉自体を説明しようとすると、なかなか苦しい。物理的には「光の速さを基準とした因果律」ということになるのか。結果の前には必ずその原因があるはずだ、というのが大前提。つまり、リンゴがそこに見えるのは、リンゴがそこにあるからだ、ということ。リンゴがないのにそこに見えるはずはない、またリンゴが存在する以前に、そこにリンゴが見えるわけがない。

人間は、過去は記憶しているが、未来は記憶していない。それは人間が経験できるのが過去のことだけに限定されるからである。この物理空間ことを、専門用語では「四次元時空連続体」という。言うまでもなく、三次元とは我々の住む3つの軸を基準に考える立体空間のこと。それに時間軸を加えて四次元。そしてそれらは連続的である。例えば、物体を落下させるとき、最高点にあったものが、いきなり最下点に移っているのではなく、その2点間を等加速度運動しながら移動する過程があった後、最終的な状態に落ち着く、という過程が観察できる。現象は飛び飛びでなく、連続である「ように見える」、というのが実際である。人間の認識は離散的(ディジタル)でなく、連続的(アナログ)なのだ。

仮に、この四次元時空連続体から、一歩外へ出たら(出られるとして)、世界はどのように見えるだろうか?こんな例えがある。二次元(面)の世界に自我を持つ生き物がいたとしたら、彼には、三次元(立体)はどう頑張っても理解できないだろう、と。四次元時空連続体を脱することを理解しようとする我々には、これに似たことがいえるのかもしれない。つまり、人は、永遠にアナログ認識である運命、ということだ。四次元時空連続体の住人である私たちが、なんとかそこ(四次元時空連続体より高次元な世界)を予測するとしたら、時間も空間も全てはもともと単独で存在しており、「今」というこのときも単独である。そして、高次元世界の住人たちから見たら、連続体でしかとらえられない私たちには、時間という流れのなかの一コマでしかないように感じられている、という程度か‥‥。何だかややこしい話だ。

そもそもの時間の概念の基本である「因果律」。原因があって結果があるのであり、その逆はない、という原則。そう認識しているのは、他ならない私たちの「脳ミソ」である。私たちの脳の中の記憶がそういう風に連続しているから、そう感じられる、とも考えられる。

では、ディジタルな記憶装置である、コンピュータのハードディスクを考えてみよう。ハードディスクに情報を書き込むとき、基本的に順番など関係なく無秩序(離散的)にディスクの任意の場所へ記録されていく。しかし、ずっとその状態でほっとくと、整理されない本棚のようなもので、何処にどういう情報があるのか探すときに異常な手間がかかる。物理的には、ヘッドがあっちやこっちに飛び回ることになり、必要な情報の検索に無駄な時間がかかる。それを回避するために、心得のある人は、定期的に「デフラグメンテーション」をかけるだろう。「デフラグメンテーション」とは、密接な関連のあるファイルはなるべく一箇所に固めて、より合理的な配置に並べ替える作業のことである。つまり、ハードディスクでは、その情報の記録される順番は離散的、その並べ替えは任意に行える。

人間の脳ではどうか?簡単にそのプロセスを考えてみよう。ある刺激が五感を通して脳にインプットされる。すると、それに反応するニューロン(神経細胞)のリンクがシナプスによって張られる。これで、記憶の断片ができる。さらに、これが繰り返されることで、記憶の断片と断片がつながって一つの秩序が生まれる。これで、一つの意味のある概念が生成される。つまり、脳は、その事が起こる順番に記憶を生成していっている。つまり、人の脳では、その情報の記録される順番は連続的、その並べ替えはできない。

時間は、もともと人の考え出した偶像である。というより、そもそも、「時間」だけを単独で考えるものではないのだろう。「空間」も含めた「時空」で考えるのである。よく、「空間」では前後左右上下、自由に動けるのに、「時間」に関しては一方向であるのは不公平である、と聞く。そこで、みんなが発想するのが、「時間」も自由になるはずだ、ということ。しかし、空間と時間が一体のものであれば、このような問題は考えなくて良い。つまり、もともと「時間」と「空間」は同様の方向性をもつ基本概念であって、ならば、両者を一緒にして「時空」と考えればスッキリする。ここで、この「時空」の方向は、一直線ではない。いわゆる螺旋構造のようなものを想定して考えている。基本的に、その方向は螺旋の巻く方向で、全体として、ねじを差し込むような感じの動きをもつもの。しかし、それは、どこかで絡んだり、分裂したり、また結合したりすることもあり得る、そのようなものと考えることもできる。

物理的にも「回転」だとか「球」という状態や構造は一番落ち着く、安定した状態である。「時空」も、何らかの幾何学図形に置き換えるなら、おそらくそのような感じの構造になっているのではないかと思う。そして、これが生物におけるDNA(遺伝子)のような構造をもつとすると、さらに美しいとも思う。

ここ近年で、ネットワークは劇的な進化を遂げた。ほんの10年前、今のインターネット、ネットワークインフラの社会が予想できたであろうか?携帯電話が高価なモノ、パソコンなんてその専門家かマニアが使う道具だ、という見方が、この10年でキレイに一掃された。今では、子持ちの母親が、育児相談にインターネットを駆使するような世の中になってしまった。

もともと軍事目的に開発されたのがインターネットだが、そのサーバクライアント方式のネットワークは、情報を分散して保存し、それらをさらに多くのユーザが共有参照できるという、実に合理的なシステムであったため、今のような状態になるに至っている。重要なのは、人間同士が、より合理的にコミュニケーションが取ることができ、かつ、有効な情報は必要なときに参照できる共有状態が保たれている、ということだ。

なぜ、人はこのようにネットワークを開発し、進化させるのか?それは、お互いのコミュニケーション、ということ、また、情報の蓄積、共有ということが、今、とても重要視されているからである。人は、もともと群で生きる動物である。そして、これは人間に限らない。例えば、広大な海を回遊するクジラの仲間たちも、その発達した聴力によって音によるつながり、つまりは「ネットワーク」を確立していることが、最近の研究で明らかになってきた。全ての生物にとって、お互いのコミュニケーションを保つことは、最優先課題なのである。

人は、本能的なつながりはもちろん、さらに上位のつながり、つまり、よりインテリジェント(知的)なつながりも求めている。人間は、もともと孤立して存在できない、スタンドアロンでは意味がない存在である、と言えるだろう。そして、その知的接続を効率的にはかる手段として、ここ近年で急速に進化したのが「コンピュータ・ネットワーク」だ。そう、コンピュータは、なるべくしてネットワークの担い手となったのであり、もともとスタンドアロンではあり得ないものだったと考えることが出来る。

物理的接触がなくとも、このネットワークを介せば、より少ないエネルギー消費で情報交換が可能となる。逆に、このことは、お互いの物理的接触の意味を希薄化しているともいえる。そこに情報があり、それが共有されていれば、もはや実体は必要ないのかもしれない。情報は媒体に蓄積され、フィックスされ、より高度になり、合理的になり、それは後世まで永久に残る。今はコンピュータのディスク、という媒体であるが、それに相当する生体のメディアを考えれば、それは「脳」であり、究極的には「遺伝子」であろう。そして、それらの発生以前の情報は、今、人の手によって収集され、確実に、ある情報メディアに保存されている。こうしてみると、「ハードウェア」の進化は、「ソフトウェア」の進化に追随している、と思える。さらに、「人の誕生の意味」も、そのあたりに求められるかもしれない。

ちなみに、地球上の人口は今56億人に達するといわれている。これは、人間の脳内のニューロンの数に相当する。人同士がネットワークでつながっていく様は、人間が成長過程で脳内のニューラルネットワークが確立されていく様にとてもよく似ている。人がそうであるように、地球も一つの意志を持って、他者とのコミュニケーションを求めるべく進化をはじめようとしているのか‥‥。

この仮説は、なぜ今自分という存在があるのか、という究極的な疑問に一つの解答を与えるものである。最初に断っておくが、これは理論的にも実験的にも実証されていない(おそらくその予定もない)私の空想である。

まず、進化は"自然選択"という方法によって全て説明可能である、と考える。自然選択は、その環境で最も最適な者が時間的未来へ存続していく、ということであるが、今この地球上に人間が存在しているのは、今の人間が最も最適にそこに存在することができる形態であるから、ということである。

ここまでは、いわゆる強い"人間原理"的宇宙論の思考方法とほぼ同様である。

ここから、観察者、という主観を考慮していく。現時点で絶対的な観察者というのは、当然いま世界を認識しているあなた自身の意識、つまりあなたの自我そのものである。その自我から全てを解釈しているのである。

しかし、自我はあなただけではなく、あなた以外の自我も存在する。それらの存在は、あなたの自我にとって外部のものであり、別世界だと考えることもできるだろう。

ところで、この世界は、実は多くの可能性の重なりとして考えることが出来る。これは量子力学的な世界観で、その存在率は"波動関数(φ)"で表現されるものである。それでも世界がただ一つしかない、と感じているのは、あなたという主観の中の認識においてである、ということだ。実際は、あなたの認識する世界以外にも可能性は厳然として存在する。可能性が存在する、ということは即ち、そのような世界はあなたの認識に関係なく存在している、ということである。φというのは、存在しているかどうかを表現する記号ではなく、そういう状態は存在している、ということを表現する記号なのだ。

さて、それでもあなたの認識はただ一つである。確かにさまざまな可能性の中から、なんらかの選択肢をあなたの認識において選んでいるだろう。ここで、"自然選択"の登場となる。あなたは"あなたが存在するのに最適の選択をしている(させられている)"と考える。

そう考えると、あなたという自我が今そうして存在し続けていることは、ある意味で当然のことなのである。そうすると、あなたの自我が、あなたの自我において消えることはない。世間では人がたくさん死んでいるが、それはあなたの認識においてそうなのであって、死亡した(ようにあなたが認識した)当人は当人の自我において、その人が存続するような選択肢がちゃんと選ばれているのである。

よくあのとき自分は生きていられたな、と思うことがあるだろう。車を居眠り運転していてガードレールに衝突しかかったが、間一髪で免れた、ということもあるだろう。実は、そこであなたを存在させていく為の自然選択が起こっており、あなたの自我(の認識)では、必ずあなたは生き残るような選択がなされる。しかし、そのとき事故死する可能性が確かにあった場合は、同時に、他(の人)の認識において、あなたが事故死するという現実も、確かに実現しているのである。別の世界では、あなたの親は泣いているかもしれない‥‥

まとめよう。あなたが認識する限りにおいて今その世界(存在)があるのは、あなたの自我(意識)がそれを選択した(させられた)から、と結論される。この方法論において、あなたの自我があなたの自我(の意識)において消えることはない(当然だが、これは、なぜ自分が今ここにいるのか、ということに対する一つの解答である、と考える)。

この考え方を発展させると、たとえ自殺を図ろうとも、必ず本人の自我の意識において死ぬこと(存在が消えること)はできないことになる。ただし、このとき、本人以外の自我の意識においてその死が実現されている。つまり、あなたの死を悲しむ親や友人は実現されながら、あなた自身は、あなたの自我の意識においてやはり存在し続けているという、非常に無意味極まりないことになるのだ。

‥‥空想終わり。

2014年3月

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