2011年3月アーカイブ

自分の存在って一体何なのか、なんてしみじみと考えたことはあるだろうか?

宇宙が誕生して、気の遠くなるような長い期間を経て進化し、やがて生命が誕生し、人間が登場する。それさえあらゆる可能性を考えれば、本当は宇宙の終わりまでかかってもあり得ない部類の出来事だったわけで、いうなれば、プラモデルの部品を全部箱の中に入れてガシャガシャと振り回して箱を開けたら、そのプラモデルが見事に完成していた、というようなことが起こるようなものだという。

宇宙の長い歴史の中に、自分という人間が存在している。一体、この自分という意識はどこからやってきたんだろうか?なぜ今、ここに存在しているんだろうか?やがて、有機生命体である宿命としてその生を終えるときが訪れる。その後、自分という存在、その意識は一体どこへ行ってしまうのだろう?生死にかかわるような出来事に直面してみないとなかなかこういうことは考えないし、考えても大した意味はないかもしれないが、その辺は永遠の謎だけに非常に興味深い。

自分がここに存在している、というのは偶然か?そのあたりから考えてみても一概に「偶然である」ともいえないのかもしれない。例えば、宇宙全体を説明できる法則、理論などというものがあったとすれば、自分という存在が登場することは最初からその法則によって運命的に決まっていたのかもしれない。あるいは、宇宙そのものに意志があって我々を登場させたのかもしれない。この辺は「神」的存在の問題になってくる。

ただ、現在知られている「量子力学」という物理学の考え方で、不確定性原理というのがあって、物事の動きというのはある確率を持った値でしか指定できないという前提がある。正確にある出来事の発生を予測はできないということ。物事はカオス的にしか測れないわけだ。となると、やはり自分という存在は偶然そこにいることになる‥‥。

宇宙論の考え方の一つに「人間原理」というものがある。これには強弱の2種類があるが、今宇宙の状態を知ろうとするとき、なぜ宇宙は今見ているような具合になっているのか、という問いに、そういう具合になっていなければ我々人間は存在していないだろうからだ、というのが弱い人間原理で、さらに我々が存在するように宇宙の設定がなされているのだ、とするのが強い人間原理。例えば、なぜ宇宙は四次元時空連続体なのか、といったとき、二次元では全て平面で生命活動を行うのに必要な体型が形成できないだろうからだ、と答えるわけ。

いずれにしても、自分の存在そのものについては謎のままだ。生命活動が終われば、自分という存在の意識もなくなる、そうなればその存在が認識していた宇宙も終わるわけだ。もちろん、他の存在が同じような宇宙を認識し続けるのだろうが。生命が終わったからその意識も終わる、もしかしたらそうではなく、意識は別のところで再利用されているんじゃないか、と思うこともしばしばある。もちろん、記憶は全て消えるが、別の存在の中に吹き込まれる、「命」とも呼ぶべきものとしての存在もあるように思う。時々、前の記憶があるきっかけで蘇ったりして、それをデジャヴと呼んだりしたり。仏教の輪廻転生の話に似ているが、では、生命が全て宇宙から消えた日にはどうなるのか、と問われると、また回答に窮してしまう。

心は物理学で解釈可能だろうか?物理学というのは、物質、力、エネルギー、それらの構造や関係を、一つの筋の通った理屈で説明しようという試み。およそ世の中の動きは、最終的にこの物理学が"心"を解明する、という向きのようである。つまり、脳という構造物、或いは、それを作る原則である物理法則を徹底的に研究すれば、いずれ"心"も説明できるだろう、と。

ところで、"心"を説明できた、とは、何をもってそういえるのか?心の発生原因が突き止められたら?心のメカニズムが解明されたら?心の導く思想が分かったら?心の操り方?それら全部?物理学は、確かに脳内の物理的メカニズムを説明することはできる。確率統計的に、インプットに対するアウトプットを予測することはできるだろう。また、ペンフィールドよろしく、人の脳をいじくってみて、ここをつつけばこういう反応がある。なるほど、この部分のこういう反応が、心のこういう働きに関係があるらしい、と。こういうことは、いずれはかなりの高精度で予言することはできるようになるだろう。ペンローズ氏などは、心のプロセスなど分からずとも、数式一発でポンと表現できればいいや、というスタンスのように思う(E=mc2みたいに)。果たしてそれで心が分かった、といって良いのか?

要は、どうすれば人間を納得させられるか、ではないだろうか。実際に"心"を持っている人間が、他人に「心とはこういうものだ」と説明されて、「おお、その通り、なっとくなっとく」となるか「あんた、何も分かっちゃいないわね!」となるか。前者を目指せど、いつまでも後者にとどまっているのが現状。女心どころでなく、基本的な"心"さえ私たちはまだよく分かっていない。

例えば、コンピュータが演算処理をする、という現象を考えるとするなら、"コンピュータ"が"脳"、"演算処理"が"心"なのか?私にはこれでも合点いかない。演算処理は、一つの入力に対応した結果が決まっている。規則がある。ところが、心はそうはいかない。全く同じ入力を同じ"脳"に対して行っても、アウトプットは決まっていない。これは、規則と条件がとても複雑に絡んでいるからそうなのだ、と説明するのが複雑系か。しかし、それを究極まで突き詰めて"心"が判然とするか、と考えると、そうでもない直感がする。どうも、分かるのは脳内の物理的構造なり現象であって、それが起こると、なぜ"心"が生まれるのか、これが難問なのである

ところで、なぜ人は物理学を採用しているのか、と考えてみる。とりあえず、"心"という正体不明のものを扱うにつけて、既知の理論体系である物理学を足掛かりにしている、というだけなのかもしれない。実際、ものの道理を説くにあたって、物理学が自然科学のデファクトスタンダードな思考方法だということは大きいと思う。これが、他の思考方法、例えば哲学や宗教のような形而上にとどまっているようなものでは駄目だということだろう。その意味で、物理学の他にないからそうしている、と。

人は科学的に何かを説明されてそれを納得するのは、それが実証可能だからである。科学の名の元に法則化されているものは、100%の確率でその現象を再現することが出来る。つまり、インプットに対応するアウトプットが、ある理屈なり式なりでズバリ予言されていれば、ビンゴ!となるのである。しかし、世の中、そう簡単なものばかりでもない。考えてみれば、このような"完全な再現性"などというものは、数学にはあれど、物理学にはない。あたりまえに認識している単位、例えば30センチの定規が、確実に30センチ丁度であるかなんて実に疑わしい。というか、世界最高の分解能を持つ電子顕微鏡で見ても、幾らかの物理的誤差は伴っているはずだ。

実は、"心"の本質も、そのような(現代の)物理学の隙間に本質をおいているのかもしれない、とも思う。或いは、ひょっとしたら、人間の持てる感覚器で何かを知る、ということに限界があるのかもしれない。いや、これは確実にある。例えば、二次元の世界に暮らす知的生物がいたとして、彼らには物理的に三次元の世界を認識することはできないのか?という問題。多分、二次元(平面)の生物には三次元(立体)を物理的に経験することなどできない。ということで、彼らは彼らの知識を総動員して、何とか三次元の世界を理解しようとする。でも実質性がない(感じることができない)。同様のことが、今の私たちにもいえる。科学全般、所詮限定された人間の認識を言葉にしているだけであり、認識できないものは言葉にさえできない。認識されていても言葉にできない。まさにそれが"心"ではないか。

全く答えが出そうにない。しかし、それでも基本的に私は、"心"を考えることと、物質やエネルギーについて考えることは同等、と考えている。"心"も、結局物質からなる私たち人間という生体の中で起こっている現象である。つまり、そのような現象が、何らかの物理法則によって引き起こされていることには間違いないはずなのだ。"心"が解明されない、ということは、即ち、物質やエネルギーなどについて解明されていない、ということであろうと思う。

SFなどで"パラレルワールド(並行世界)"という世界が登場することがある。よくある設定が、私たちが暮らしているこの世界にとても良く似ているが、どこか微妙に異なった部分を持つ世界、主人公などの主観で見る場合、その主人公が人生において何か選択をする度に、その選択肢の数だけそこで世界が分岐している、というようなものである。

実は物理学にもこれに似た考え方がある。エベレットという学者が唱えた"多世界解釈"と呼ばれる世界観がそれである。これは、量子力学の考え方の拡張であり、現在メインストリームとなっている量子力学の解釈と競合する形で、現在に至っている。

量子力学では、物質やエネルギーなどを、ある種の"波"として解釈する。誤解なきよう、ここでいう"波"とは、あくまで量子力学の世界で考える波であり、古典論で述べられるような縦横に広がって伝わるあの波ではない。量子力学的な波とは、簡単にいえば"確率の波"である。何かがそこに存在することを、それが存在する確率で議論するのだが、このときの"何か"の位置と運動量というのは同時に特定できない、という、ミクロ世界を扱うときの要請がある(不確定性原理)。このことから、その"何か"の存在について、量子力学では確率的に見ることになる。そのような状態を表現する道具として"波動関数"というものが用いられる。

多世界解釈の前に、まず、現在スタンダードな量子力学では、世界をどう解釈するか、ということを考えてみる。例えば、ある一つの電子がある場所に存在することを、観測という行為をするまで、不確定性によって確率的にわーっと広がったような状態で存在する、と考える。それを実際に見るまでは、それが存在しうる場所に確率を求めて、その広がりで解釈するのである。このような状態を"電子雲"と呼ぶ。そして、その電子を、何らかの方法で観測したとする。このとき、仮にその位置が特定されたとすると、それまで広がっていた雲は、その観測した一点にシュッと集まることになる(運動量でも同様)。これを"波束の収縮"というが、要は、それまで確率分布として見ていた電子を、観測という行為をした時点で、電子の存在が現実の事象として確定する、というわけである。このような解釈は"コペンハーゲン解釈"と呼ばれており、現在の量子力学のメインストリームとなっている。

さて、対抗馬の多世界解釈ではどうか?その電子の存在を確率分布として見るところまでは、コペンハーゲン解釈と同じである。問題は、それを観測するという行為が発生した時点から後である。多世界解釈では、それを観測しようがしまいが、その確率分布は持続している、と考える。どういうことか?例えば、ある一点にその電子の位置を特定したとき、それ以外の可能性が消えるのでなく、やはり、その観測者には認識できない世界で続いている、と考えるのである。そんな馬鹿な話はない。私たちの世界に認識できないのだから、それは"ない"ということではないか。確かに、そう観測した観測者の世界にはないが、その観測者以外の観測者の世界には"ある"のである。つまり、多世界解釈では、観測者をも巻き込んで確率解釈しているのである(観測対象だけでなく、観測対象とそれを観測する観測者が存在する時空全体もその波動関数に含まれている)。そうなると、確率がゼロでない限りの可能性は、全て同時に存在していることになる。可能性のある限りの世界が同時進行しているのだ。まさに"多世界"。

考えてみれば、この考え方は的を得ている。観測対象も、その観測者も、もとは同じ物質からできている構造物である。それらを差別して解釈する理由はどこにもない。誰かが特別扱いを受けるのは納得いかん、という方には、この多世界解釈は馴染みやすいか。もともと、この多世界解釈は、何故観測した時点で突然波が収縮するのか?という問題を解決する為に考案されたという印象がある。その意味で、現在のスタンダードな量子力学を一歩踏み越えた先進的な理屈、といえるかもしれない。

運命はあるのか?つまり、すでに宇宙、ひいては我々人類のたどるシナリオは既に完成されているのだろうか?という問題。これも神に関連してくる。よく「ラプラスの悪魔」の話が引き合いに出される。初期状態が正確に理解できれば、その先は完全に予測可能である、というのは、ニュートンの運動方程式によって全ての運動は計算で導けるという仮定から、ラプラス卿が定義した説。ここから、もし、全て世の中の状態を完璧に理解できる者(悪魔)がいたとしたら、未来は全てその悪魔によって予測されている、としたもの。こうして私がこんなことを書いていることも、ラプラスの悪魔によって既に予測済みだったことになるわけだ。

これを破ったのが量子力学だ。ミクロの世界においてはニュートンの運動方程式では正確に運動を記述できない、不確定性の及ぼす影響を考慮する必要がでてきたことで、未来予測は完全には不可能になったのである。ただ、これは人間が現象を観察する、つまり見るという行為を伴った場合の話で、実際にはそれを見ようが見まいが何かがそこで確実にある法則のもとで起こっている、と考えられる。我々人間は、この現象を確率に置き換えて解析しているにすぎない。光、また電子などを媒体にする以上、人間の観察領域には限界がある。

カオスという概念がある。小さな擾乱が予測不可能な現象に結びつくかもしれない、この辺も我々人間の未来予測を困難にしているのだ。もし、人類に今以上のものの見方ができるようになったら、あるいはラプラスの悪魔が復活するのかもしれない。

いずれにしろ、人類はまだ全てを見切れていない。言ってみれば、ルールも分からずにチェスの対戦を見ていて、次第にそのルールやコマの動きを理解しているような状態。チェスとは我々の宇宙であり、ルールとはその宇宙の統一法則になるだろう。もしも、そのルールを決定する存在が"知性"として存在するならば、それが"神"に他ならない。

人類がこの宇宙に誕生したのは何故か?また、今人類は宇宙にとってどのような存在なのか?今、地球上で人類の動向を見る限り、あまり良い印象はない。確かに、科学技術は進歩し、巨大な文明を築き上げているが、その裏で、人類以外の生命に対する考慮があまりにお粗末で、人類さえ栄えることが出来ればそれでよいという感がある。

例えば、宇宙というシステム内に、害となる存在が侵入してきたとする。そこに自然治癒力などというものが存在するなら、それによって有害な存在は排除される。つまり、もしも宇宙が宇宙自身を守ろうとしているなら、面倒なことはせず、無益なものは容赦なく消去し、有益なものを存続させていこうとするはずである。有神論で考えるとして、もし神がいるとしたら、無益なものを残しておくことは不合理であり、消去されてしかるべき、というのが私の視点というか、考え方だ。

そこに人間という存在を考えたとき、それは宇宙全体の利害とどう絡んでくるのか?もし、人類が何らかの自然の力によって排除されようとされているなら、宇宙にとって有害な存在といえるかもしれない。だが、今の時点で、それはまだ未知数だ。例えば、宇宙の利害基準とはどのようなものか?このあたりを探ることで、人類の未来も見えてくるかもしれない。宇宙に到達目標があったとすると、それにより効率よくアプローチするために何をすべきか、それに対応する利害の相関関係、というのが判断基準になるのか。

ただ、局所的に地球上ということだけを考えたら、人間はあらゆる生物のトップに君臨した気になって、やりたい放題である。このままズルズルいってしまったのでは、地球全体の生命の死活に関わることは明らかだ。

人類が宇宙にとってどのような存在になるのか?この辺は人類の最終目標を考えることにもつながってくるようだ。宇宙に意志的性質があるなら、それは合理主義的なものであろうと思われる。今はあくまで進化過程の一時点なのだと見る。つまり、宇宙は一発でパーフェクトなものを作ることはできない、やはり成長、進化の過程は必要だ、と考える。(これは進化宇宙論という)今は進化過程で、あらゆる"揺らぎ"が生じている状態なのではないかと見られる。

考えるべきは、宇宙と人間全体との関わり合い、宇宙の目的達成にどう人間が絡んでくるのか(また人間には触れることさえできないものなのか)というあたりだろう。私も人間なので、その人間がタダで終わるような存在であって欲しくないと願う。

宇宙がある生命を誕生させる。それが有意義なものであるかどうかを判断する場合、その生命がトータルで効率的(合理的)かどうかだろうと思う。どのような形態の生命が最も効率的、合理的か?いってみれば、地球はそれを試す一つの実験場になっているのかもしれない。こうした形態の生命を誕生させたらどうなるのか、そこに別の形態の生命を加えたらどうなるのか、こうしたことの繰り返しで生態系が最適化されてきているように思う。

地球上に単純な有機生命を誕生させてみる。最初はバクテリアのような単細胞生物だったけど、ここから自らエネルギーを作り出す植物性バクテリアと、出来合いのエネルギーを摂取する動物性バクテリアを共存させてみる。多細胞生物をつくってみる。有性生殖種をつくってみる‥‥。こうして、さらに多様な生命体をつくってみて、どれが一番効率の良い生命かを選択していく。

人類の誕生は、また新しい段階の実験であるように思う。人類は知性を持ったことで、ただ生きているだけの生命ではなくなったわけだ。未知に対応できる、思考できる、計画性を持つ、こういった能力は他の生命体にはないもので、これによって、生命がようやく宇宙に目を向けることが出来たのだ。

自己とは何か。身体的なもの、精神的なもの、そうしたところ以外にも自己というものが見いだせる。その一例として、免疫的自己がある。免疫とは、病原菌などから自己を守るシステムとして知られているが、それは自己と自己でないものとの判別を行うシステム、ただ病原菌だけをより分けているのではなく、自己とそうでないものを区別し、そうでないもの、つまり非自己と認識されたものを自己の体内から排除するシステムでもある。精巧にこのシステムが作用して自分が自分として生きていける。

キメラの実験を例に考えてみる。キメラとは生物学でいう合成生物のこと。実験では、ニワトリとウズラの受精卵を使い、それを神経管ができてくる時期に、ニワトリの神経幹を取り去ってウズラの神経管を埋め込む。そこから脊髄ができ、末梢神経が伸びるわけだが、そうするとニワトリにウズラの羽が生えたような生物が発生する。こうして、しばらくはニワトリとウズラが一つの個体の中で両方自分であるかのように振る舞うのだ。神経幹とはその生物の形態を決めるはたらきを持っているが、では、神経幹ではなく、脳を取り替えてみたらどうか?ニワトリの受精卵の脳になるであろう部分を取り去って、ウズラの脳になるであろう部分を埋め込んでみる。そうすると、脳はウズラで体はニワトリというキメラができる。これは、一種の移植実験で、ベースとなる体にある部分を移植すると、その部分だけ別の形態を持って生まれてくる。脳を移植された場合も然りで、脳だけウズラで体はニワトリ。では、自分がニワトリなのかウズラなのか自己で判別できているのかが問題になる。

実験では、そのキメラが、ニワトリではなく、ウズラのような鳴き方をした。このことから考えると、やはり自己は脳にあるかのように思われる。個体の行動様式を決めているのは脳である。つまり、それは自己であり、自己は脳にあるといえる。しかし、これが成長すると、ニワトリの免疫システムが働きはじめ、ウズラの脳を非自己と見なし攻撃しはじめる。やがてこのキメラは死に至る。ここから考えても、一体自己とはどこにあるのかという問いには完全に答えられていないのだ。脳については後でも述べる。

ところで、キメラの実験は、ヤギとヒツジでも試されているようである。そして猿と人間、なんてところも研究されているようだ。今、豚に人間の臓器を持たせ、必要な部分だけ豚から人間に移植する、そうしたファームビジネスも既に実験段階にあるという。前向きに見れば、これで慢性的な移植用の臓器不足が解決される。実際、ヒヒの肝臓を人間に移植する医学的治療は米ピッツバーグ大学で行われた。

免疫はどこで自己を判別しているのか?ここで、遺伝子的自己という点が問題になる。人間の細胞は約60兆。46個の染色体で構成されるDNAは、約30億の塩基対からなっている。そのわずかな違いで人間は様々な個性を持ち、多様な考えも持てるようになっているのだ。

DNAにはその個体の様々な情報が入っている。この中には病気の情報も入っていて、現在、遺伝子を調べることで様々な病気の診断を行うことも可能となっている。これに続いて、遺伝子治療も進歩させるべく現在研究が続いている。遺伝子を見ることで、その個体のおおよその潜在能力はみることができるという。先天的に持つ病気や、将来高血圧になるかもしれない、糖尿病になる素質がある、なんてところも分かってくる。おそらく、その人の素質、例えば運動能力、知能や向き不向きなんてとこも見透かすことができ、寿命までも分かってしまうかもしれない。さて、そうして見ることのできる自己は、確かに真の自己かもしれないが、果たして精神も遺伝子に依存しているのかどうか?

そこで考えるのは、精神とは一体どこにあるのか。自己の全ては脳にあり。そう考えることもできるが、果たして本当にそうなのか?例えば、脳だけで自己を確立できるかどうか?脳は、何もないところから何かを作り出すことはできない。手足と切り離して、果たして脳だけで存在していけるかと言えば、実はそうではない。脳は、様々な体の部分からの刺激を受けて反応している。そこから思考を得、発展させることでものを考えるという作業をこなすことができる。例えば、とんでもない化け物を想像しようとしても、どこか見たことのあるものの合成でしかない。見たり、感じたりしたことのあるもの、つまり経験からしか事物を生成できないのが脳なのだ。そこから想像を発展させることはできるが。真っ暗で何もない中に、ぽんと意識のみが放り出されたとしたらどうなるか?言ってみれば、何もない空間に神様がいるのと同じような状態。さて、神様はここからどんな世界を作っていけるのか?そう考えると、今ある世界を作り上げた神様の自己は脳にはなかったことになるのではなかろうか。

しかし、外界を認識し、自己を認識しているのはやはり脳だ。自己が何処にあるかといわれれば、やはり脳なのか?例えば、幻を見ても、それはその自己にとっては事実であり、認識なのだ。直接刺激を脳に働きかけることで快楽を得る、このような薬が近年日本でも販売されるようになり、社会に波紋を呼んでいる。感情を薬でコントロールできる、擬似的快感、この辺も自己がどこにあるのか考える上で複雑なところでもある。

自己といえば、哲学では頻繁に議論される機械的自己というのもある。機械は心を持つことができるのか?そして自己を持つことはあるのか?人工知能の研究を進める上で、この辺りもその研究の対象となっている点である。もし、自己なるものが分かったとき、自己をもつ機械というのも誕生させらせるだろう。

自己とは一定ではなく、一種の過程であると考えることもできる。生まれたばかりの赤ん坊と、その人が老人になったときとでは、身も心も変わっていく。実際に身体の細胞は常に入れ替わってる、それが常に同じであるように見えているのは、その設計図が同じだから、DNAがしっかり監督しているからだ。内面的によく自己を見つめ直したら、その精神、考えはその後の経験によって変化していく。昨日の自分は今日の自分とは別人であり、明日の自分もまた然り。

驚くべきことに、アメリカで、将来医学が発達して、いずれ人工的に人体を作り出せる、あるいは再生できることを予期して、死後、脳だけを冷凍保存している、などということが行われている。そういう人々は、脳に自己があると信じてそうしているのだ。ただ、私には、自己というものがそう単純なものには思えない。

時間とは何か?あまりに当たり前すぎる概念だけに、いざ、その言葉自体を説明しようとすると、なかなか苦しい。物理的には「光の速さを基準とした因果律」ということになるのか。結果の前には必ずその原因があるはずだ、というのが大前提。つまり、リンゴがそこに見えるのは、リンゴがそこにあるからだ、ということ。リンゴがないのにそこに見えるはずはない、またリンゴが存在する以前に、そこにリンゴが見えるわけがない。

人間は、過去は記憶しているが、未来は記憶していない。それは人間が経験できるのが過去のことだけに限定されるからである。この物理空間ことを、専門用語では「四次元時空連続体」という。言うまでもなく、三次元とは我々の住む3つの軸を基準に考える立体空間のこと。それに時間軸を加えて四次元。そしてそれらは連続的である。例えば、物体を落下させるとき、最高点にあったものが、いきなり最下点に移っているのではなく、その2点間を等加速度運動しながら移動する過程があった後、最終的な状態に落ち着く、という過程が観察できる。現象は飛び飛びでなく、連続である「ように見える」、というのが実際である。人間の認識は離散的(ディジタル)でなく、連続的(アナログ)なのだ。

仮に、この四次元時空連続体から、一歩外へ出たら(出られるとして)、世界はどのように見えるだろうか?こんな例えがある。二次元(面)の世界に自我を持つ生き物がいたとしたら、彼には、三次元(立体)はどう頑張っても理解できないだろう、と。四次元時空連続体を脱することを理解しようとする我々には、これに似たことがいえるのかもしれない。つまり、人は、永遠にアナログ認識である運命、ということだ。四次元時空連続体の住人である私たちが、なんとかそこ(四次元時空連続体より高次元な世界)を予測するとしたら、時間も空間も全てはもともと単独で存在しており、「今」というこのときも単独である。そして、高次元世界の住人たちから見たら、連続体でしかとらえられない私たちには、時間という流れのなかの一コマでしかないように感じられている、という程度か‥‥。何だかややこしい話だ。

そもそもの時間の概念の基本である「因果律」。原因があって結果があるのであり、その逆はない、という原則。そう認識しているのは、他ならない私たちの「脳ミソ」である。私たちの脳の中の記憶がそういう風に連続しているから、そう感じられる、とも考えられる。

では、ディジタルな記憶装置である、コンピュータのハードディスクを考えてみよう。ハードディスクに情報を書き込むとき、基本的に順番など関係なく無秩序(離散的)にディスクの任意の場所へ記録されていく。しかし、ずっとその状態でほっとくと、整理されない本棚のようなもので、何処にどういう情報があるのか探すときに異常な手間がかかる。物理的には、ヘッドがあっちやこっちに飛び回ることになり、必要な情報の検索に無駄な時間がかかる。それを回避するために、心得のある人は、定期的に「デフラグメンテーション」をかけるだろう。「デフラグメンテーション」とは、密接な関連のあるファイルはなるべく一箇所に固めて、より合理的な配置に並べ替える作業のことである。つまり、ハードディスクでは、その情報の記録される順番は離散的、その並べ替えは任意に行える。

人間の脳ではどうか?簡単にそのプロセスを考えてみよう。ある刺激が五感を通して脳にインプットされる。すると、それに反応するニューロン(神経細胞)のリンクがシナプスによって張られる。これで、記憶の断片ができる。さらに、これが繰り返されることで、記憶の断片と断片がつながって一つの秩序が生まれる。これで、一つの意味のある概念が生成される。つまり、脳は、その事が起こる順番に記憶を生成していっている。つまり、人の脳では、その情報の記録される順番は連続的、その並べ替えはできない。

時間は、もともと人の考え出した偶像である。というより、そもそも、「時間」だけを単独で考えるものではないのだろう。「空間」も含めた「時空」で考えるのである。よく、「空間」では前後左右上下、自由に動けるのに、「時間」に関しては一方向であるのは不公平である、と聞く。そこで、みんなが発想するのが、「時間」も自由になるはずだ、ということ。しかし、空間と時間が一体のものであれば、このような問題は考えなくて良い。つまり、もともと「時間」と「空間」は同様の方向性をもつ基本概念であって、ならば、両者を一緒にして「時空」と考えればスッキリする。ここで、この「時空」の方向は、一直線ではない。いわゆる螺旋構造のようなものを想定して考えている。基本的に、その方向は螺旋の巻く方向で、全体として、ねじを差し込むような感じの動きをもつもの。しかし、それは、どこかで絡んだり、分裂したり、また結合したりすることもあり得る、そのようなものと考えることもできる。

物理的にも「回転」だとか「球」という状態や構造は一番落ち着く、安定した状態である。「時空」も、何らかの幾何学図形に置き換えるなら、おそらくそのような感じの構造になっているのではないかと思う。そして、これが生物におけるDNA(遺伝子)のような構造をもつとすると、さらに美しいとも思う。

ここ近年で、ネットワークは劇的な進化を遂げた。ほんの10年前、今のインターネット、ネットワークインフラの社会が予想できたであろうか?携帯電話が高価なモノ、パソコンなんてその専門家かマニアが使う道具だ、という見方が、この10年でキレイに一掃された。今では、子持ちの母親が、育児相談にインターネットを駆使するような世の中になってしまった。

もともと軍事目的に開発されたのがインターネットだが、そのサーバクライアント方式のネットワークは、情報を分散して保存し、それらをさらに多くのユーザが共有参照できるという、実に合理的なシステムであったため、今のような状態になるに至っている。重要なのは、人間同士が、より合理的にコミュニケーションが取ることができ、かつ、有効な情報は必要なときに参照できる共有状態が保たれている、ということだ。

なぜ、人はこのようにネットワークを開発し、進化させるのか?それは、お互いのコミュニケーション、ということ、また、情報の蓄積、共有ということが、今、とても重要視されているからである。人は、もともと群で生きる動物である。そして、これは人間に限らない。例えば、広大な海を回遊するクジラの仲間たちも、その発達した聴力によって音によるつながり、つまりは「ネットワーク」を確立していることが、最近の研究で明らかになってきた。全ての生物にとって、お互いのコミュニケーションを保つことは、最優先課題なのである。

人は、本能的なつながりはもちろん、さらに上位のつながり、つまり、よりインテリジェント(知的)なつながりも求めている。人間は、もともと孤立して存在できない、スタンドアロンでは意味がない存在である、と言えるだろう。そして、その知的接続を効率的にはかる手段として、ここ近年で急速に進化したのが「コンピュータ・ネットワーク」だ。そう、コンピュータは、なるべくしてネットワークの担い手となったのであり、もともとスタンドアロンではあり得ないものだったと考えることが出来る。

物理的接触がなくとも、このネットワークを介せば、より少ないエネルギー消費で情報交換が可能となる。逆に、このことは、お互いの物理的接触の意味を希薄化しているともいえる。そこに情報があり、それが共有されていれば、もはや実体は必要ないのかもしれない。情報は媒体に蓄積され、フィックスされ、より高度になり、合理的になり、それは後世まで永久に残る。今はコンピュータのディスク、という媒体であるが、それに相当する生体のメディアを考えれば、それは「脳」であり、究極的には「遺伝子」であろう。そして、それらの発生以前の情報は、今、人の手によって収集され、確実に、ある情報メディアに保存されている。こうしてみると、「ハードウェア」の進化は、「ソフトウェア」の進化に追随している、と思える。さらに、「人の誕生の意味」も、そのあたりに求められるかもしれない。

ちなみに、地球上の人口は今56億人に達するといわれている。これは、人間の脳内のニューロンの数に相当する。人同士がネットワークでつながっていく様は、人間が成長過程で脳内のニューラルネットワークが確立されていく様にとてもよく似ている。人がそうであるように、地球も一つの意志を持って、他者とのコミュニケーションを求めるべく進化をはじめようとしているのか‥‥。

この仮説は、なぜ今自分という存在があるのか、という究極的な疑問に一つの解答を与えるものである。最初に断っておくが、これは理論的にも実験的にも実証されていない(おそらくその予定もない)私の空想である。

まず、進化は"自然選択"という方法によって全て説明可能である、と考える。自然選択は、その環境で最も最適な者が時間的未来へ存続していく、ということであるが、今この地球上に人間が存在しているのは、今の人間が最も最適にそこに存在することができる形態であるから、ということである。

ここまでは、いわゆる強い"人間原理"的宇宙論の思考方法とほぼ同様である。

ここから、観察者、という主観を考慮していく。現時点で絶対的な観察者というのは、当然いま世界を認識しているあなた自身の意識、つまりあなたの自我そのものである。その自我から全てを解釈しているのである。

しかし、自我はあなただけではなく、あなた以外の自我も存在する。それらの存在は、あなたの自我にとって外部のものであり、別世界だと考えることもできるだろう。

ところで、この世界は、実は多くの可能性の重なりとして考えることが出来る。これは量子力学的な世界観で、その存在率は"波動関数(φ)"で表現されるものである。それでも世界がただ一つしかない、と感じているのは、あなたという主観の中の認識においてである、ということだ。実際は、あなたの認識する世界以外にも可能性は厳然として存在する。可能性が存在する、ということは即ち、そのような世界はあなたの認識に関係なく存在している、ということである。φというのは、存在しているかどうかを表現する記号ではなく、そういう状態は存在している、ということを表現する記号なのだ。

さて、それでもあなたの認識はただ一つである。確かにさまざまな可能性の中から、なんらかの選択肢をあなたの認識において選んでいるだろう。ここで、"自然選択"の登場となる。あなたは"あなたが存在するのに最適の選択をしている(させられている)"と考える。

そう考えると、あなたという自我が今そうして存在し続けていることは、ある意味で当然のことなのである。そうすると、あなたの自我が、あなたの自我において消えることはない。世間では人がたくさん死んでいるが、それはあなたの認識においてそうなのであって、死亡した(ようにあなたが認識した)当人は当人の自我において、その人が存続するような選択肢がちゃんと選ばれているのである。

よくあのとき自分は生きていられたな、と思うことがあるだろう。車を居眠り運転していてガードレールに衝突しかかったが、間一髪で免れた、ということもあるだろう。実は、そこであなたを存在させていく為の自然選択が起こっており、あなたの自我(の認識)では、必ずあなたは生き残るような選択がなされる。しかし、そのとき事故死する可能性が確かにあった場合は、同時に、他(の人)の認識において、あなたが事故死するという現実も、確かに実現しているのである。別の世界では、あなたの親は泣いているかもしれない‥‥

まとめよう。あなたが認識する限りにおいて今その世界(存在)があるのは、あなたの自我(意識)がそれを選択した(させられた)から、と結論される。この方法論において、あなたの自我があなたの自我(の意識)において消えることはない(当然だが、これは、なぜ自分が今ここにいるのか、ということに対する一つの解答である、と考える)。

この考え方を発展させると、たとえ自殺を図ろうとも、必ず本人の自我の意識において死ぬこと(存在が消えること)はできないことになる。ただし、このとき、本人以外の自我の意識においてその死が実現されている。つまり、あなたの死を悲しむ親や友人は実現されながら、あなた自身は、あなたの自我の意識においてやはり存在し続けているという、非常に無意味極まりないことになるのだ。

‥‥空想終わり。

昼間明るく、夜が暗い。あまりにあたりまえのことなので、普段誰も気になんかしちゃいないだろう。ときに、「何で夜は暗いの?」と聞かれて、皆さんならどう答えるだろうか?そんなあたりまえのこと今更聞くな、というところだろうが、実はこの問題は20世紀初頭まで解くことができなかった難問なのだ。今なら、小学生でも、地球は自転していて、太陽の陰になったら暗くなるのだ、ぐらいのことは答えられるだろう。しかし、実はこれでは答えになってはいない。何故かというと、宇宙に存在する恒星は太陽だけではないからだ。夜空を見上げれば分かるように、宇宙には無数の恒星が存在している。一番地球に近いのが太陽なのだというだけで、一番近い恒星にしか影響は受けない、などということはない。そう、見渡せる夜空の範囲を埋め尽くせるぐらいの恒星は、現に存在しているはずなのである。うっそうと木々が茂った密林を思い浮かべてみよう。林の奥の方を見通そうと努力しても、必ずその目線は木々のどれかにぶつかってしまう。結果、周りは木しか見えない状態になるはずである。宇宙にも同じことがいえるのではないだろうか?

遠すぎて光が届かないのだ、と考えてみる。何故届かないのか、という理由を考えると、途中ある物質にそのエネルギーが吸収されてしまうから、となるのだが、エネルギーは保存されるもので、エネルギーを吸収した物質はその熱によって発光し始めると考えられる。つまり、本来夜は明るいはずなのだ!眩しいくらいに無限の恒星に照り付けられているはず、なのにそうはなっていない。これを「オルバースのパラドックス」という。

回答として、一つには、宇宙は膨張をしているから、という事実があげられる。膨張しているということは、光源は常に私たちから遠ざかっているわけだ。この膨張速度は、地球からの距離が遠くなればなるほど(地球から見て)速くなることが知られている。これをハッブルの法則という。つまり、地球より遙か先では膨張速度が光速を超えていると考えられ、そこからの光は永遠に地球へ届くことはない。

宇宙が膨張しているということは、光のドップラー効果(実際は音のドップラー効果とは原理が少し違うが)を考慮する必要もある。つまり、光の波長は、光源となる星の後退によって次第に長くなっているのである。実際、宇宙の膨張という事実はこれによって明らかになった。波長が長くなれば光は赤みを増す(光の波長が長くなると赤くなる)。そして、いずれ赤外線よりも外の領域へ出る、つまり可視光でなくなるわけだ。そうなればその光は見えない。

この他にも、星の寿命は永遠ではない、という理由もある。星が永遠に光りつづけているものでなく、終焉を迎えるものであることで、永遠の光源というものは考えられなくなる。また、星と私たちの地球の間に光を遮る、あるいはその光を減衰させる要因(重力源や小惑星などの宇宙塵など)があるのではないか、とも考えられている。宇宙にはまだまだ謎が多い。経験的に当たり前だと思っていた身近なものでも、こうして宇宙論的な問題に発展することが多々である。

もしこの世が、カオスの複雑系が多くを締めているとすると、何気ない現象が将来大きな影響を及ぼすことがあるのだろう。カオスはもともと数学の考え方である。その状態が進行することでエントロピーが増大する、つまり秩序が乱れてくる、という原理。バタフライ効果などで知られている。北京で蝶々が羽ばたいた程度のゆらぎが、後にニューヨークで巨大なハリケーンを発生させる原因となるかもしれない‥‥。ところで、未来の予知は完全に出来ないのだろうか。近未来の予測であれば、何とかしようといろんな学者が研究している。身近なとこで、気象庁。天気予報にはかなり骨を折っているようだが、おかげで日本の天気予報の的中率は80%以上と世界一を誇っている。「ナビア・ストークスの方程式」という言葉をご存知だろうか?どこかで聞いたことはあるかもしれないが、これは、もし解けたら天気予報なども完璧にできるだろう、とされている、未だ解けない、いわば未来予測方程式ともいわれるものである。今はスパコンなどを駆使して、その近似解を求めることでなんとか予報を出しているようである。ただし、確率付きで。

とにかく、我々人間は因果律の上でしか物事を理解できないのだから、系が乱れていく先にも原因と結果があり、お互いに離散的な結果が存在すると考えられる。ただし、その逆はない。グラスが床に落ちて割れることはあっても、割れたグラスが元に戻ることは、自然にはあり得ないのだ。現象の拡散という意味なら、これは量子力学の考え方になる。位置と速度が同時には確定できない電子の運動、これを考える上で速度を確定して位置をある確率で分布させる、理論上、この時点で電子の位置は拡散している。ちなみに、「多世界解釈」という考え方がある。原因から結果にたどりつく、考えられるあらゆる道筋全てをたどったのだ、とする、いわゆるファイマンの経歴総和法の派生で、今現在も我々の世界と同時進行する並行世界が無数に存在するとする説。SFなどでいう「パラレルワールド」のような感じのやつだ。

こうして様々な世界が並行して存在していると仮定する。宇宙の法則の存在しない世界などもあるのかもしれない。しかし、これは物理学では意味のないものとされ、定義しないことになっている。法則が破れ、定義できないものは無視する、つまり、見えないものは存在しない、と科学はいっている。例えば、宇宙の始まる前は何があったのか?などと考えることは、科学ではなく、哲学の領域になる。そうはいっても、もし存在していたことが確かなら、なにがしかはあったわけでそれを知ろうと考えるのは自然だろう。興味のあるところである。

余談だが、霊界、あの世はあるのか?いっぺん死んでまた生き返ってみないことには分からないのは痛い。人間は単なる生命体として存在しているのか、それとも"魂"とか"霊"として存在する内の一形態が生命体なのか、この辺も想像の世界になるのであるないの決定は難しい。

これに人間は、宗教として、その信念のもとにいろいろ説明をつけようとしている。昔から死は避けて通れない、生命体としての最終的な恐怖なわけで、自分という存在は死んでしまうことで完全に消えてしまうのか、という恐れに対し、そうあって欲しくないという強い願望から、救いの道を与える様々な宗教が生まれた。まだ解明に至っていない科学領域の中に、もしかしたらそのような法則も存在するのかもしれない。今はまだ、哲学や宗教の領域だが。

 

※ エントロピー : 秩序を表現する指標。いわゆる「でたらめさ」のこと。

高度情報化時代といわれている現在、インターネットであらゆる疑似体験ができるようになっている。うちから一歩も出ないで世界中を散歩できる、ショッピングもできる、あらゆる情報も知ることができる、最近は映画やテレビ番組までインターネットを通して見られるようになっている。いわゆる仮想体験、疑似体験、世に言う「バーチャルリアリティ」というやつが横行する中、人間は極度に知的な存在になりつつある。というのは、最終的には脳だけの存在でオールOKなんて事態がやってくる可能性が濃厚になりつつあるってこと。これは、ある意味経済的だが、あまりに無機質で、あまり歓迎できたものではない。

例えば、現代社会をちょっと観察してみることにする。まず、動力の発達で、人間はほとんど力仕事を強いられることはなくなった。そして、電気の発達で自然の力を必要としなくなった。また、ある程度自然をコントロールできる技術を身につけてきた。夜になって暗くなれば、電灯で明るくできる、寒ければエアコンで暖かく保てる。

そして、最も人間を動かない存在にさせたのは通信網の発達だ。電話なぞ、わざわざ用のある相手のところまで出向かなくとも、うちにいながら話ができてしまう。さらにパソコン通信は、相手の顔もわからないのに、気軽にコミュニケーションをとれる、もはやそこに人間の姿は必要ないのだ。

そんな中、人間が人間らしさを保っていられるのは、人間が"感情"を持っているからに他ならない。これがなくなったら、まさに人間は無機的な知性体になってしまう。何か嫌なことがあれば悲しい心境になる、楽しいことがあれば嬉しい気持ちになる。

ところで、すべての感情は"欲求"に起因するところが大きい。つまり、欲求に反することが身の回りで起これば不愉快になる、逆に欲求が満たされれば気分がよくなる。動物が本来持っている「本能」とは別に、人間にはもっと他の「好奇心」から生まれる"欲求"もあるように思う。もちろん、本能も満たされれば、人間も動物の一種だから楽しいには違いないが。

全てを発展させてきたのも好奇心からでた欲求によるもの。何かを知りたいというのは、その対象が何であるにしろ、人間が持ち続けてきた、またこれから将来も持ち続けるであろう永久不滅の欲求である。

多くの疑問が残るダーウィンの進化説。確かに、現在確認されている化石や、その他の状況証拠から、大筋で突然変異、自然淘汰を繰り返して進化してきたようである。ただ、ダーウィンが「種の起源」を著してからかなりの歳月が経っており、その間、生物学に関連する科学技術も大きく進歩している。それら最新技術、あるいは理論によって、ダーウィンオリジナルの説は少しずつ修正されている。

修正版進化仮説はいくつかあるが、それらの中の一つに「ウィルス進化説」という説がある。その名の通り、生物がウィルスに感染することによって進化する、という考え方。簡単に言えば、生物が「進化」という病気にかかるのだ。病気というのは、生体に悪影響を及ぼすものばかりでなく、時として生体に都合の良いものもあったのだというわけである。そのウィルスは、生命体にその生物が住む環境に適応するようになる遺伝子そのものをプレゼントしているのだという。これを分子生物学では「遺伝子の水平移動」と呼んでいる。

ウィルスというのは、細菌やその他微生物のような「生物」だと考えられがちであるが、生物学的な分類から見るなら生物ではない。生物は、基本的に自らエネルギーを摂取して生命活動をする、また、自らの子孫を残そうとする、という物体。ウィルスはこれらの活動を一切しない。というのは、ウィルスというのは、DNA(遺伝子)そのものだからである。その周りをタンパク質の膜で覆われてはいるものの、それ以上の構造を持っていない。当然、自らエネルギーを摂取することもなく、自ら子孫を残そうともしない。ただ、何らかの生物の体内に侵入して、自分の持つ遺伝子をその体細胞に伝達するだけである。ウィルスは、けなげな遺伝子の運び屋なのだ。その遺伝子が、体にとって有害なものであれば病気になるし、逆に、それが利の方向へ働く可能性もあるわけだ。

つまり、キリンはそのウィルスに感染した為に首が長くなり、サルはウィルスに感染した為に人間になったのだ、という話になる。しかし、そんな好都合なウィルスが一体何処からやってきたのか?ということになるのだが。

心の中で浮かんでは消えていく考えなり、概念について。その知識量というか、文章にすると、これはとてつもなく膨大な量になるだろう。くだらないことから、納得できるようなこと、ひょっとしたらこれは核心を突いているんじゃないか、と思えるような考えもふと浮かんでくることもある。思考の中にあるうちは、そのままの形態で存在していることができる。しかし、それを長時間維持することは難しい。そのままにしておくと、やがて、もやもやとぼんやりしたものになり、やがて思考から消えていく。せっかくスゴイことを思いついたのに、などと思うことも多々。

考えること、思うこと、と、それを表現することは、本質的に別のものなのだろう。思考というのは、そもそもそれを誰か相手に伝えることを前提としていないものである。もちろん、相手に伝えることを前提とした思考もあるが、思考が主体となる場合、つまり、普段私たちが一人で物思いに耽るときなどは、その伝達のことを考えない。

思考のメカニズムというのは、まだはっきりと解明されてはいない。ものを考えるとき、それは言葉で考えているという部分もあるし、イメージや直感で考えているという部分もある。前者は左脳で後者は右脳の働きであることが知られているが、左脳を失っても、理論的にものを考え言葉を喋ることのできる人もいるなど、完全な分業ではないことも分かっている。

ところで、人は大人になるにつれて、左脳が発達し理論的にものを考えることができるようになるが、逆に右脳の使用頻度が減って刺激や情報を"生"で受け取ることができなくなるそうである。つまり、どんな現象を目の当たりにしても、それはまず言葉やそれまでの経験則に基づいたフィルタを介して理解されるというのである。例えば、リンゴが目の前にあるとすると、一般の大人なら、それがリンゴであると知っているし、リンゴという言葉も理解しているから「それはリンゴである」と考える。一方、リンゴなど見たこともなく、それが何者であるかすら知らない子供には、「赤くて丸っこいもの」というような解釈にあるであろう。後者のような考え方は、その後解釈によってどのような変化も可能だが、前者は、それがリンゴである、と決定しており、そこから認識が揺らぐことはない。大人の頭が堅い、というのは、このような理由もあるようだ。

例えば、何かを思いつく。言葉や文字を知っている私たちは、その内容を言葉なり文字なりの形で記録に残そうとする。すると、その正確な形態、思考の原型は失われる。もし、その思考を、脳、また知識同士がそのままの形でコミュニケーションをとる手だてを私たちが知っていたら、言葉や文字の文明である今の世の中とは、全く別のものになっていただろう。

ナノ [n] というのは、マイクロ [μ]の1000分の1。マイクロ [μ] というのは、ミリ [m] の1000分の1。ミリ [m] というのは、原単位の1000分の1。ここで、原単位はメートルである。つまり、それくらい小さなオーダで操作可能なものをつくろうという技術が「ナノテクノロジー」である。その大きさが1mm程度のロボットは、これまでも開発されてきた。とても人の手では及ばない微細なものを扱うとき、小さなロボットが威力を発揮する。しかし、現在、特に医療分野から、人体における血管内や脳内の治療など、さらに小さく繊細な箇所を扱いたいという需要が増している。ここにきて、ミリからマイクロ、そしてさらにナノオーダで動くロボットも、科学技術庁やその他の研究機関、企業で研究されるようになった。

ナノオーダというのは、細菌などの微生物から分子、原子レベルの大きさということになる。しかし、例えば原子を意のままに操作したい場合、それを物理的に動かすには、やはり原子でできた「手」で操作しなければならない。つまり、原子を原子でできた道具で操る、ということになるわけだ。ロボット工学の上では、これまで半導体の高密度集積化や、センサー、モータなどの高機能化もあって、かなり小さなものを実現できるわけだが、いくら高性能であっても、それで小さなものを物理的に扱えなければ意味がない。マイクロやナノといった極めて小さなものに、必要なセンサーやそれを駆動させるアクチュエータなどを搭載して機能させる、などということが果たしてできるのか?

通常、何かを物理的に精密に操作する場合、それを操作する「手」は、操作される対象より小さなものである必要がある。これはナノオーダでも同様。例えば、「アセンブラ」と呼ばれる原子を扱うナノサイズのロボット(ナノマシン)が仮想されているが、このロボットは、原子を操作する触手を持っている。しかし、その触手も原子でできているので、どうしても原子より小さな手を持つことができない。従って、原子レベルのものを精度良く操作する、などということは物理的に不可能であるように思える。

一般的に、物質は微細なほど重力以外の力の影響が大きくなる。例えば、雨は重力によって空から地面に向かって降るのだが、それが霧状になると、重力よりも気流などに大きな影響を受けて拡散し宙を舞う。このような現象は小さくなればなるほど顕著に現れる。超小型のロボットの駆動原理もこの理屈による。静電気力や磁力、原子、分子どうしの力など、人間の日常生活では物理的にあまり意識されない力を利用するのである。これなら、物理的に「手」で操作せずとも原子レベルのサイズを操作できそうである。

もともと、自然界には原子でできたものが存在しているわけである。それらが何故あるかというと、自然界に存在する相互作用によって構築されているからだ。そうした自然の力を知れば、理論上は、どんな構造物でも、ナノテクノロジーで意のままにつくることができるはずである。そのような自然の力を利用しようという動きの中で注目されるのが「バイオテクノロジー」だ。生体機能は、それに固有のタンパク質集合体からなる「生体分子機械」によって担われており、その大きさは10ナノメートル程度である。考えてみれば、細菌などの微生物は、昔からこのようなナノの世界で生きており、ある目的を達成するために動いているのである。その構造やシステムを理解し、それを人間の手で作ってしまおう、というのが、現時点で一番の早道であることは間違いないだろう。今、この技術を駆使した「バイオ・ナノマシン」の研究も手がけられ始めている。

「バイオ・ナノマシン」のアクチュエータは、もはや電子機器ではなく、生体運動の担い手である筋タンパク質(アクチン、ミオシン)分子である。アクトミオシン分子モーターは化学物質アデノシン3リン酸(ATP)をアデノシン2リン酸(ADP)と無機リン酸(Pi)とに加水分解しつつ、方向性のある運動を引き起こす。これは、生体内での基本的なエネルギー変換システムであり、私たちの体内においても、この変換システムによって生命維持がなされている。このシステムによる分子モーターは、筋収縮系だけでなく、動物、植物を問わず細胞内骨格として、細胞の形態変化、例えば、受精卵の卵割、原形質流動、アメーバ運動など、様々な細胞内機能を担っている。このような生体運動が完全に解析され、それが技術として利用可能になれば、ガンやエイズ、その他の難病の根源を、このナノマシンによって撲滅できると期待されている。

このようなテクノロジーは、一種人の手によってウィルスを創り出そうとしている、ということもできる。つまり、この技術によって人体改造なども可能になってくるわけだ。一定の病気を排除するための技術として使用されている間は問題ないが、実際その技術が確立されると、そこではとどまらないだろう。人間の体を人間の欲望や利欲によって改造しようとする、ということも、最近の美容整形ブームをみると容易に想像できる。ともすれば、そのウィルス(ナノマシン)が暴走して、バイオハザードにもなりかねない。最近のクローン技術も然り、であるが、これは成り行きに任せるしかない、と私は思っている。意図的に止められるものなら最初からしないだろうし、それをし始めて一旦「是」であるとされたものは、次からどんどん採用されていく。これは、人の歴史をずっと見ても繰り返されていることである。

※ バイオハザード : 生物学的災害。研究施設などから細菌やウィルスなどが漏れ出すなどの事故によって、人間をはじめとする生物全体に多大な被害をもたらす。

科学的にそれは不可能、科学的にあり得ない、そんな言葉を耳にすることがある。科学とは一体何なのか?

「科学」という言葉を辞書で引いてみた。すると、科学とは【ある対象を一定の目的、方法のもとに実験、研究し、その結果を体系的に組み立て、一般法則を見つけだし、またその応用を考える学問。『旺文社国語辞典』より】とある。これは、世の中の様子がどうなっているかということを探求する学問である、ということか。

つまるところ、科学というのは、ある現象に理屈を付ける作業である。現象は科学によって成立しているわけではい。科学がなくても、現象はある。人が考えるまでもなく宇宙はあり、地球は周り、その上に人や生物が存在している。そんなこと説明するまでもない。疑うなら見ればよろしい。現にそうなっているではないか!それで終わるのなら、あとは寝てしまうのが楽で良い。そうではなく、それにあえて理屈をつけて納得のいく解釈を得たい、それが人間の知性の本性だろうと、私は思う。

かつて、アリストテレスやヒッパルコスなどの学者は、太陽や惑星の運動について、かなり緻密な数学的手法によって説明した。この手法は、今でも天体の運動をよく予測している。しかし、その後に登場したケプラーやガリレイなどの学者は、それらをもっと簡単に、もっと的確に説明する手法に気づいている。彼らの考え方の何処が違っていたか、といえば、地球が止まっているか動いているか、という観点が違っていたのである。このような例を見ると、目の付け所一つによって、同じものに対する解釈も劇的に変わってくる、ということを感じさせられる。同じ対象を解析してるのに、その数学的プロセスは全く違う。しかも、それのどちらが人にとって理解に容易、ということはできるけど、どちらが正しくてどちらが間違い、と、決定的にいうことはできない。そこには、まだ確実でない余地が残っているからである。

実際、今でもケプラーの三法則では三体以上の運動を正確に説明することはできない。そこに相対論や量子論を絡ませることも可能だろうが、そうなると、かなり複雑に数式が積み上がってしまう。もともと世の中の最初にあった法則は、至ってシンプルなものだったのではないだろうか。そう考えると、それをこうして複雑化するという方向は、天動説を数学的に塗り固めて証明しようとしている方向と同じではないか。

実は、科学として今ある手法が最適かといえば、そうではないだろう。もっと単純で、もっと確からしい法則なり理論があるはずである。少なくとも歴史はそうであった。ニュートン力学、地動説、相対論、量子論、そして次世代の理論へと、人の歴史の中で、科学のパラダイムも次々と変貌している。その時代に最先端の知識、そして技術はあったが、それらは、次の時代の知識と技術によってすっかり塗り替えられていたりすることがある。科学というのは、こうして、かつての人が作り上げた土台を次の人が壊して、さらに次の新たなものを目指す。そうしたものが「科学」である、ともいえるかもしれない。

既成の理論で不可能を唱えている姿勢、というのは、実質、科学に関わろうとする姿勢ではないと考える。本当に知る、ということは、知らないことが如何に多いかということを知る、ということ。もともと、人の考えることなんて、それほど確かなものではない、という謙虚な前提のもとで、自然に、つまり宇宙に接していくべきであり、それが「科学的」な姿勢であると考える。

今、世に語られている「科学的宇宙論」。これは、従来のニュートン力学による天体構造の考察から、量子論的な確率論、場の理論へその本質が変わりつつある。ホーキングのいう「量子宇宙」、これは、決定論的なものではなく、確率論的なもの。宇宙の未来は、以前の決定論的な考え方、つまり、法則によって決まった運命を持つのではなく、極めてゆらぎ多く不確定なものであろう、という考え方に変遷してきている。

人間の考える科学理論は、常にその主人公を人間の目に据えている。人間の目に見えるものが事実で、どうあっても見ることのできないものというのは、議論の対象から外される。だから、人に見える見えないに関わらず、ものの動きは何らかの法則で決定しているのではないか?ということは議論しない。その決定要素は、あくまで自分や人という観察者にある。それによる決定がなされない限りは「不確定」とする。ある時点で、その未来はあり得る限りの可能性を持っている。それは、ある決定要素によって選択的に一つに決まる。自分一人がそうではなく、これを人類全体に拡げてみても、ものを観察するという立場が変わらない以上(個と集合の違いはあるにせよ)不確定であることには変わりない。

とにかく、これまで私たちが持っていた常識を排除しよう。もともと量子論なり量子力学というのは、我々の目に見えないミクロの世界(素粒子の世界)を考えることに必要とされて生まれた考え方だ。そこではもはや私たちの常識であるニュートン力学は通用しない。粒子は、同時に波動の性質も持つ。その存在を考えるとき、観察する前はその可能性の波としてそこにあるという考え方をとる。つまり、粒子はそこにある可能性もあるし、あそこにある可能性もある、その強弱が波で表現されている、と思えば良い。量子論では、そのようなものを確定されていない可能性の集合体、と考える。これを、未来が「共存する」といったりする。それを観察する、つまり「粒子」として一意に決定すること、これを、「波が収束(収縮)する」という。それまで可能性の集合としての波だったものが、一個の結果である「粒子」として確定したことになるわけだ。

さて、これと同様の原理をマクロに対応させてみる。つまり、我々の宇宙は、あらゆる可能性の共存する状態として見ることができる。マクロの世界も、「量子」という性質を持つ素粒子で構成されているわけだから、それを適用しても悪くはないはず。実際、量子力学による計算がニュートン力学によるそれよりも正確かつ精密な結果を導き出すことは分かっている。ただ、量子力学だと複雑すぎるので、実用上無視できる誤差範囲ならニュートン力学でやった方が、手っ取り早く合理的なのでそうしてるのである。例えば、ボールが上から下へ落ちる現象や、月が地球の周りを回るといった計算も、量子力学を持ち出すと、まずその構成要素である素粒子から議論しなくてはならなくなるが、ニュートン力学であればその必要はない、というわけである。

逆に、ニュートン力学はミクロに適用できない。そういう意味で、量子力学の方が物理理論的に器が大きいといえる。量子力学をマクロな現象に適用しよう、という考え方を「対応原理」という。では、宇宙もミクロな素粒子の振る舞いのごとしであるか、といえば、その通り。宇宙は幾多の可能性を秘めた世界、それらを経験する以前は、可能性的に共存すると考えることもできるようになる。こういう考え方の一つに「多世界解釈」というものもある。

あらゆる可能性がある中で、我々の宇宙は、我々人間が誕生する方向へ選択的に決定されてきた、と考えられる。逆に、我々人間が、今ここにこうして存在しているということは、我々の宇宙は、こうして人間を誕生させる為に決定された世界であった、とも考えることができるわけだが。考えようによっては、見えるものが全てであるということから、観察者であり事象の決定要素である我々が、そういう世界を観察し、その事象なり法則なりを発見し、検証していることは、同時に宇宙という存在の姿を確定しつつある、ということにもなるのか。

何気なく毎日頭上にポカッと浮かんでいる月。一番身近な星でありながら、実は多くの謎を秘めた神秘の星でもある。まず、知られているデータとして、月の赤道半径は1738kmで地球の約4分の1。これは、大きさという観点から見ると、太陽系の他の惑星に対する衛星の大きさの比率は平均して10万分の1であるのに対し、地球に対する月の大きさの比率をみると約80分の1と桁違いに大きいことが分かる。また、月のおかげで地球に生命が誕生した、ともいわれている。月が存在する以前、地球の地軸は安定せず、グラグラと揺れながら自転していたと考えられているが、月のおかげで、お互いの引力によって、その軸のぐらつきがなくなり、自転は安定した、という話だ。月の引力が引き起こす潮の満ち引きも、これによる干満の差があることで、海岸に干潟が生まれ、そこで緩やかに生命が発生できたと考えられている。

その月の起源だが、これはいまだに謎だ。主な起源説は5つ6つあるが、どれも確定的証拠なり、不自然な要素なりがあることで、これが正しい、と言いきれるモノではない。

第一に、捕獲説。月は、実は宇宙の何処からかやってきて、それがたまたま地球の衛星軌道に捕獲された、という説。例えば、火星の衛星であるフォボスやダイモスはこれではないかといわれている。また、土星や木星の外側を回る衛星たちも、何処かよそからやってきた小惑星が、そのまま木星や土星の重力によって衛星軌道に落ち着いたのではないかとされている。第二に、沈殿説。月は、地球のマントルから蒸発したガス雲が宇宙空間で冷やされ、地球の衛星軌道上で沈殿した、という説。これはかなり特異な説だが、可能性はゼロではなさそうだ。第三に、分裂説。月は、地球の一部が飛び出して、そのまま衛星となった、という説。これには、地球の近隣を巨大天体が横切るとか、地球上で尋常でない火山活動が起こる、などのきっかけが必要だ。第四に、双子集積説。月は、地球とほぼ同時期に地球の兄弟惑星として誕生したが、その大きさの差から、月は地球の衛星となった、という説。その大きさの比率からして、これは大いに考えられる話。

そして、最近有名になり、最も有力であろうとされているのが"衝突放出説"である。月は、地球外の天体が地球に衝突し、地球の一部をえぐり取ってそのまま宇宙空間に放出され、その残骸が地球の衛星軌道で固まった、という説。これは、別名「ジャイアントインパクト」説ともいう。事実、アポロ計画で地球に持ち帰られた月の岩石は、地球のマントルに存在するものに一致しているし、その他様々な状況証拠も、この説を支持している。ただ、この説も仮説である。

古来から、人類は月に魅せられてきた。それは、一番大きく目立つ星であるということは当然ながら、何か不思議な力を秘めた存在でもあるかもしれない。日本の古書を紐解いてみても、月に関するくだりが多く見受けられる。そして、等しくそれは美しいものの対象とされてる。

目に見えないもの、我々の理解の外にあるもの、その中に多くの重要なものがあるように思える。ただ、超ミクロの粒子のように、小さすぎて見えないというものだけでなく、例えば、意志、概念、エネルギー、時間‥‥など。目でものを見るという行為は、光学的に光がその物体に当たって、その反射を視覚としてとらえること。また、音に関しても、なんらかの事象から発せられる気体などの媒体の振動を鼓膜の振動としてとらえるわけだが、人間はこうした体感的なものでしかものを「見る」ことができない。もっとそれ以上のものの感じ方がないものだろうか。人間の五感というのは、どうにも人間の理解や認識を著しく限したものであるように思える。

実際、その感覚で感じることはできないが、それを別の形で間接的に理解する方法はある。それは「理屈」で理解するということ。例えば数学によるものの考え方はそれにあたる。虚数や無理数など、それを実際には感じることはできないが、その仮想空間において解析することが可能というのも、一般にいかにも奇妙な話である。しかし、数学は、人間の感覚、主観を全て排除して物事を客観的に見ることのできる道具であるといえるだろう。物理的に人間に認識できないことでも、それは確かにあるのだ、と、私たちに教えてくれている気がする。

私たちの認識を物理的な感覚に限定しているのは、私たちの肉体がそういう構造でできているからである。光は目で、音は耳で、匂いは鼻で、熱や圧力は肌で感じることができるが、それ以上の情報を私たちは認識することはない(もっとも、第六感もあるかもしれないが)。それ以上の情報が本当はあるかもしれないのだが、実質それを感じることは不可能なのである。しかし、人は考えることができる。インプットは限られているが、それらを材料に、自らの脳で思考によって様々な事象を仮想することはできる。

ここで考えてみたいのだが、私たちに見えているものと見えていないもの、どちらが割合的に多いのだろうか?氷山の一角という言葉さながらに、おそらく見えているものというのは、そこにあるもののほんの一部に過ぎないのではないだろうか。実は、この宇宙には私たちに見えていないものの方が多いのであって、むしろそちらの方に重要なものが多く潜んでいそうである。

私たちは、宇宙の舞台公演だけを見せられていて、その裏方でどんなことが起こっているのかを知る手だてはない。単なる観客なら、その裏方を知る必要もないのだろうが、例えば私のように、それを知りたいと思う人間もまた多い。それを知りたい、という好奇心をかき立てさせているのも、当の宇宙自身だろうと考えると、いつかは知ることができるんじゃないか、とも思える。ただ、今の人間には何か見られたくないものがあって、それを必死に隠しているようにも思える。

生命にかけらも存在しないと思われがちな火星であるが、実は、地球以外の太陽系惑星の中では、一番生命が存在する可能性が高いとされている星である。これまで一般人には何の魅力も関心もなかった火星だが、近年一気に脚光を浴びる存在となったのは、やはり、火星から飛来した隕石 "ALH84001" に、生命の痕跡らしいモノが発見された、というニュースによるところが大きいだろう。何も知らない人が聞けば、ふーん凄いなぁ、程度だろうが、学会や学者にしてみれば、生命の起源と定義の根底から見直しをせねばならないほどの、一大センセーションである。もし、火星に生命が存在したことが判明すれば、今世紀最大の発見となることはいうまでもなく、人類史上最大の発見の一つとしてもよいレベルのものである。

"ALH84001" という隕石は、今から約15000年前に、火星に小天体(といっても火星の一部を削り取るくらいのもの)が衝突した際に宇宙空間に放り出された破片の一つが地球まで飛来したと考えられているものである。これは南極で発見されたもので、保存状態は他の場所にあった場合に比較して格段に良いだろう。生命の痕跡を検証するには絶好のサンプルといえる。他にも火星から飛来したと思われる隕石はいくつかあるが、その年代が、約45億6000年前という古い年代を示すものは、この"ALH84001" のみである。これは、火星の最も古い時代を伝える重要なサンプルである。

このサンプルに生命の痕跡を示す証拠があるという理由はいくつかある。まず一つに、「炭酸塩」の小さな球体が認められたこと。これは、地球上の微生物も同様に造り出す物質である。そして、この球体の中に有機物が発見されたこと。「多環式芳香族炭化水素」と呼ばれる物質なのだが、これも生物の活動につながる物質である。また、同じ球体の中に100万分の1ミリメートル(1ナノメートル)オーダーの磁鉄鉱が見つかった。地球上の微生物も同様な磁鉄鉱を造り出すことが知られている。そして、この球体内に細菌の化石らしきものも認められている。

以上の理由から、火星には生命が存在するのではないか、という仮説に至ったわけだが、もちろん、これは確認できた事実に基づいているとはいえ、明らかに生命が「存在する」と分かったわけではない。今のところ状況証拠がそれを示唆している、としかいえない。もっとも、過去に起こったことを今扱おうとする場合、状況証拠で議論するしかないわけだが。しかし、火星の場合は、今後探査機も送られ調査が進められることになっている。そのうちはっきりした証拠も見つかるだろうと期待されている。

興味深いのは、それが有機生命であるならば、遺伝子を持つであろうことは、当然予想される。地球上の生命の遺伝子DNAは、4つの塩基から構成されている。すなわち、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の4つのブロックの組み合わせで成立しているわけだ。果たして、火星生命はどうなのか?これは、非常に興味のあるところである。そしてもう一つ、生命となる有機物(アミノ酸など)には、光学異性体と呼ばれる、お互いの分子構造が、まるで鏡に映したように左右対称となっているものがある。一方をL型と呼び、もう一方はD型と呼ばれている。これが、地球上の生命においては、何故か例外なくL型に統一されているのだ。これも不思議な話である。これは、火星生命では一体どうなっているのか?

火星を調査することでこれらの真義が分かれば、宇宙に於ける(少なくとも、太陽系に於ける)生命の起源や発生の問題に、大きく迫ることができると思われる。

地球に生命が存在するのは、実は地球外から生命はやってきたのだという説がある。生命の「地球外起源説」、「パンスペルミア説」と呼ばれている。これは、19世紀の終わりにアレニウスという学者が言い出した話で、それ以来、いろいろな学者がいろいろな兄弟、姉妹説を唱いだしたようである。

「生命地球外起源説」。ぱっと聞くと、何だかとても異端な響きのある言葉だ。しかし、これは実はごく自然の話である。そもそも、地球上に生命が誕生したその根源、原因とも全くはっきりしていない。ただ、地球上にもともとあったメタンガスやアミノ酸(に近い高分子化合物)があって、それらが大気中、或いは水中で雷などの刺激を受けて反応し、生命の素ができたのではないか、のような説はあるが、では、そのアミノ酸やらガスの成分などは一体何処からきたのか?と考えると、やはり、地球も宇宙空間に浮かんでいる天体なのだから、自身の中にある材料と共に、外部からの材料提供もあったはずだ、と考えるのは、ごく自然の話である。

実際にどんなものがあるかといえば、例えば、隕石とともに生命も地球に飛来したという説、また彗星説、あるいはかつてUFOに乗って地球へやってきた生命の生き残りだという話まである。もしかしたら、地球人は、宇宙のどこかからやってきた異星人が作り出し、進化させたものではないか、という説も。これらはいずれも、地球生命の起源は宇宙にあるのだから「地球外起源」ではあるわけだ。

当然、これには多くの反論があるようだ。生命は、どうやってその生まれた惑星の重力圏を振り切ったか、また宇宙の過酷な環境を乗り越えて地球までたどり着く可能性はあるのか?そして、もし異星人などがいるとしたら、地球へやってくる理由、価値はあるのか?またエネルギーの採算などはとれるのか?などということになってくる。「地球外」ときいて、この後者である異星人パターンが真っ先に頭に浮かんできた人もいるだろう。ただ、ここでの話は、前者の考え方に近いものということで進めている。

以前、火星に生命がいたんじゃないかという説を裏付ける証拠が、火星から飛んできた隕石に見つかったと、NASAから発表があった。これが確かだとすると、地球に存在する生命ってのも、実は環境さえ整えば宇宙空間にありふれたものということになるわけで、当然、E.Tの存在可能性もグッとアップしたわけだ。

ずっと以前から、私はこの原理について考えていた。高校時代、このようなテーマを扱ったSFを読んでいて、いたく感動した覚えがある。こんな考え方もあったのかと。その後「人間原理的宇宙論」、そういう考え方を実際に提唱する学者の一派があると聞いて、SFと科学理論がシームレスになりつつあることに更に感動したものだ。

人間原理的宇宙論、これは「宇宙の人間原理」とも呼ばれている。その基本的な考え方は、『今、ここに我々人間が存在しているということは、宇宙は人間が存在できる環境であったという確かな証拠である』というようなもの。この環境は宇宙の一部に限定されず、いずれの場所においても同様に人間が存在する可能性を持つ。つまり、宇宙はどこまでも等質であるということ。人間が存在でき、観察できる環境、すなわち法則は、宇宙の法則そのものに他ならない。と、ここまでは、普通に受け入れられる考え方だろう。実は、さらに強い考え方があって、今、我々人間が存在している、ならば、宇宙は人間が存在できる環境を用意していたことになる、つまり、宇宙は人間を存在させる為に在るのだ、という、少々人間の思い上がりとも取れる発展した考え方。

もう少し踏み込んでみる。宇宙が存在している理由って何?という疑問、これを考えるとき、宇宙も人と同じように意志を持つのではないか、と考えると、自然に考察することができる。「神」の話とも絡んでくるが、宇宙の存在理由を考えるとき、一番手っ取り早いのは、そうした人格的神を容認することだ(私自身は、これについてあくまで否定的だが、ここではあくまで話を簡単にするために比喩的に人格「神」を擁立する)。宇宙には存在理由がある。ならば、宇宙は最終目標を持つ、それは宇宙の始まった動機であり、存在する意義であろう。実際、人類が認識できる範囲でしか物事は検証できず、ある一定の範囲で有効な法則は、宇宙全体にもいえるだろうという、宇宙の等質性を信じるしかない。もし、宇宙の各部分によって法則が異なるようなら、この原理ばかりか、人類科学自体破綻してしまう。というところでは、神を信じるのに近い状態(分からない部分をブラックボックスとして神に任せてしまう)ともいえそうだ。

意志といえば、人類も意志を持つ。ここで、宇宙が自己相似性のもとに、人類にも同様な意志を与えた、と考えてみる。「人類の意志」とは「人類の共有する意志」ということ、すなわち、人類が等しく認知する意志。それは知覚であり、それにより認識される事象であると。それが、この宇宙での事象である限り、この宇宙の法則に従う事象に他ならない。宇宙の法則とは、宇宙の意志に帰せる。故に、宇宙の意志と人類の意志は共有のものであり、同一のはずである。

重要なのは、宇宙も人間も、同じ材料でできている、ということ。材料とは、アミノ酸や土や水、とうマクロ的なものに限らず、宇宙の構成要素としてもともと存在していたと考えられている宇宙の根源のことである。同じものでできているのだから、その性格がそう大きく変わるものではないだろう、と。少なくとも、私たち人間が考えつく範囲で物事は構成され、動いているのではないか、と考えることができる。これと同じ方向の考え方で、自分の認識している範囲での出来事が、その人にとって宇宙の全てであり、それは、さらに知ろうとすることで、その宇宙をどんどん広げることができる。宇宙とはそういうものだ、と考えてしまうのもありだと思う。「人間原理」とは少々違うが。

ところで、世の中に成立しているのは「人間原理」だけではないだろう。犬だって猫だって存在しているから、当然「犬原理」なり「猫原理」なりも、平等にあって然るべきのはずだ。

人を「人類全体」とするのか、人間個人、一部の人類、その「人」という生命体、知性体とするのかは問題にしない。とにかく、「人」という存在が、何らかの物理法則なり数式に乗っ取って運動しているとはしないまでも、その先にあるものは決まっているのか、何か目標に向かって行動しているのか否か、もっと言えば、生命体が進化してきたのは「人」という最終点に到達する為だったのか、さらに先はあるのか‥‥などの疑問が限りなく浮上する。

些細なところで、例えば、A君が「あの娘、いいな」と恋心を持つことは、本能に乗っ取って子孫を残すということ一つに集約されるのか、Bさんが「ミュージシャンになりたい」というのは自らを養っていく手段としてだけの意図なのか、最終的に私たちのやってることの意味はなんなのかって考えて、それらを一つの法則なり原理なりにまとめられるものならその傾向というか方向というのが、一体何処に向かっているのだろう、などということを疑問に感じたりする。

巷では経済が崩壊しかかっていて、それを立て直そうとする人の動きがあり、しかし一方で全く報われないという事実がある。ある建設物を巡って住民投票が行われるも、それをもみ消さんとばかりの力も動いている。どこかの知事が税制改革を打ち出せば、どこかの官僚が反発する。タバコのポイ捨てをやる人もいれば、それを掃除する人もいる。ゆっくり静かに走る車もいれば、壮大な爆発音をとどろかせて走る車もいる。おしゃれをする人もいれば、まったく地味な人もいる。太る人もいれば痩せる人もいる。笑う人もいれば泣く人もいる。生まれる人もいれば死ぬ人もいる‥‥

殊様々な人の生き方があるものである。こんなバラバラでは、到底一つのことを成し遂げようという傾向は見えてこない。そもそも、人にすること、したいことなどないのだろうな、と思う。人がいろいろしているうちに、結果的に何かが出来上がってくるということはあるのかもしれないが、最初から何かをしよう、と目的のようなものがあるわけではなさそうである。もちろん、個やある集団として一つの目的を据えることはあるが、人類として、あるいは、個と別の個がその志を共有する、というようなことは、まずない。結局人の流れも、カンブリア爆発のような多様性からの試行、選択によって、より合理的、というか、その環境に合ったタイプの者が選ばれていくのだろう。

「少年よ大志を抱け」とは福沢諭吉の言葉だったか。大志を抱くことは悪いことではないに違いない。少なくとも、それに向かって前進することができる。他に挫折があっても、その最終目標だけ妥協しなければ、なんとか乗り切れるものだ。しかし、その最終目標すら崩壊してしまうと、人間そのものが崩壊することもままあることで、大志を抱くのもほどほどが良いのだろう。こうして、人はほどほどの目標を持ちつつ、周囲に合わせながら、自分の欲求もできるだけ満たす方向で、ほどほどに生きている。自分勝手に暴走すると、それはお縄をちょうだいする羽目になったりする世の中だから、漫然平凡な社会が保たれているのだろう。

しかし、そんな社会にどっぷり浸かっていると、ふと思うことはないだろうか?一体、みんな何がやりたいんだろう、と。

果たして、この世の中には「神」は存在するのか?この疑問は、人類の歴史が始まって以来、最大にして崇高な課題として今日まで持ち越されている。まず「神」を考えるに当たって、その定義から考えなければならないだろう。神とは何か?神なる存在、それは全知全能で、永遠にこの世界に存在し続けるもの、また、宇宙の創造主、この辺が一般的な「神」の位置づけということになるだろう。

考え出せばきりがないが、ここで、神を人格化するのはいかにも宗教的である。ただ、もともと「神」という考え方が宗教的なので、いまさら別のモノを考えることもないだろう、と思われるかも知れないが、神を人格化すると、ほとんど何でもありになってしまう。何でもあり、というのは、それを考える意味が薄くなってくるので、ここはあえてもう少し限定的な「神」を考えてみるとする。

一番早い考え方は、宇宙そのものが「神」、と考えること。つまり、世の中を統率する(物理)法則なるものがもしあるとすれば、それが全てを生み出したわけで、これからの運命もおそらくその法則によって決定されているのだろうなぁ、と考えることができる。人間がその法則を発見できるか、また理解できるか、操ることができる者が現れるのか、また既に現れているのか、この話は、人間が物理的な意味で神に近づけるかどうかという問題にもつながってくる。現時点で、人間は量子力学、すなわちその不確定性原理によって状態をある確率を持った値でしか理解する術しか持ち合わせていない。例えば、その法則を人間が発見できるかどうか、ということもその法則によって決定されているかもしれないわけだ。

余談だが、宇宙人はいるのか?これは存在ということを考えれば、その可能性は大いにあるといえる。人間が地球に誕生したことを考えれば、他の天体に地球と同様の環境が整えば、大体似たような生命体は発生できるだろう。ただ、そこから人間並みの知能を持つまでに発達しうるか、これに関しては、猿がタイプライターをめちゃくちゃに打っていたら、偶然シェイクスピアの名作のフレーズを叩き出していた、てなことが起こるような可能性に等しいと言われている。宇宙の終わりまでかかっても起こらないようなことだが無ではない。事実、地球に人間は存在し得たのだから。そこからさらに高度に発達した知能をもった知性体になることができるのかどうか?可能性はさらに小さくなるが、やはり0ではない。

さて、事実、地球では私たち人類が誕生した。私たちは何処からきたのか?私たちは何者なのか?そして、私たちは何処へ行くのか?生物の進化論もその回答を得ようとした学問の一つだろう。今では分子進化学が発展し、これまでのような化石や標本などから予測する大ざっぱなやりかたではなく、遺伝情報などを見ることによって正確な進化説を立てようとする試みが進められている。結果として地球上では人類が栄えた。これは、適者生存の法則の結果として、最後に人類がその位置に君臨し得たと考えて良いものか?

例えば、宇宙の人間原理という考え方がある。これには強弱2種類存在するが、考え方の基本は、人間が生存しうる環境がこの宇宙である、なぜなら現に我々が存在しているからだ、として宇宙の状態を見ようとする少々我がままな宇宙観だ。これを生命進化に当てはめて考えてみると、最初から人類が生まれる方向で進化が続いた、もっと言えば、生命は人類が生まれるために誕生したのだとなる。強い人間原理に乗っ取って、この宇宙は人類が存在しうるような環境を整えているとすれば、宇宙とは人類の誕生のために用意された場であるわけだ。ただ、無数の生命体の一要因に過ぎない人類が、そこまで過大評価される理由は何もない。やはり、人類も一生命体に過ぎないのであって、過去にあったややの不確定性から、結果的に今の人類が流れ着いてきているのである。

人は全てに何かの意味を見ようとするものである。その根本に自分たちの存在がある。私たちは、一体何のために存在して(させられて)いるのか?何をすべき存在なのか?おそらく、人がこう考えることから、人類を創造した何者かの意志が知りたい、と考えるようになり、「神」という偶像を作り上げてきたのだろう。そんな「神」とは、人には到底及ばない絶対的強大な力を持っていると考える。この力に縋ろうとする人の弱さから、宗教的に飾られた人格神が出来上がってきた、と考えられる。

"シュレーディンガー"とは、オーストリアの物理学者の名前である。彼は、古典物理学の飽和した時代、つまり、物理学というものは既に完成されたであろうとされていた時代を生きた人物の一人であり、ボーアやハイゼンベルクと共に、量子力学の発展に大きく貢献した人物でもある。彼は当時、自分の進む道を、物理学者にするか哲学者にするかで真剣に悩んだという逸話も。

彼はこんな装置を仮想した。ラジウムはある周期でアルファ粒子を放出する。一時間中にそのラジウムがアルファ粒子を放出する確率は50%だとする。これは見た目にはわからないので検出器にかける。また、猫を一匹捕まえてきて、密閉された箱の中に閉じこめ、青酸の入ったビンも一緒に入れる。そこで、検出器がアルファ粒子を検出すると、箱中のビンが割れ、青酸で猫はあの世行き、という仕掛けをつくる。さて、箱にはフタをして、外からは視認できない状態になったところで実験開始。といっても、ただそのまま一時間待つだけなのだが。フタを閉めて一時間経ったところで、猫の身の上を議論するわけだ。果たして猫は参っているのか、ピンピンしているのか?

ここで、量子論の基本的な考え方として、物事を確率的に議論する、ということを理解しなければならない。この場合、フタを開けて中を確認するまでは、猫は50%の確率で生きているし、また50%の確率で死んでもいる、という奇妙な状態であるわけだ。半分死んで、半分生きた状態。その外にいる私たちにはそう思える、いや、思えるのではなく、事実そうなのだ、と考えるところが、量子論がこれまでの物理理論と大きく違う点だ。そんな馬鹿な話はない、と、思われるだろう。実際、箱のフタを開けようが開けまいが、猫は、死んでいれば死んでいるし、生きていれば生きているもの。普段そうした現象の中で暮らしている多くの人は、普通はそう考えるだろう。

アルファ粒子が放出されるか否か、というのはミクロな現象である。これは量子力学によって語られる世界。ところで、猫が生きるか死ぬか、という問題はマクロな現象である。ここがこの仮想実験の面白いところで、ミクロな現象は不確定性原理によって確率的な議論をすることになるが、果たしてそれをマクロな猫の安否にまでその考え方を延長してしまって良いのかどうか、という話。

少し整理してみよう。私たちがモノを認識するとは、一体どういうことか?それは、五感で感じ取り、それを脳で処理する、という行為だろう。つまり、脳でその事象を認識しない限りは、その人にとって、その事象は「ない」も同然の話になる。では、「事象」とは何だろう?それは、そういう事が起こっている、あるいは、その可能性がある、ということになる。ここで、脳がモノを認識する、という行為も、一種の「事象」であると考えられる。つまり、それが、人の五感に作用して脳が刺激を受ける。こう考えると、「事象」とは、相互作用の連鎖である、と考えることができるのではないか。事象は相互作用して初めて存在する。人に相互作用しないものは、つまり、人にとって「ない」も同然の話、ということになる。

ここで「猫」の話に戻って、もう一度考えてみよう。箱の中に猫を入れた。これは確かな事実(私たちの脳が認識している事象)である。その後フタを閉めて、例の装置(早い話、猫を50%の確率で殺す装置)を作動させる。人間の脳は、そこで実質的な議論をすることは不可能である。何せ、それを見ることができないのだから。しかし、論理的に解釈することは出来る。つまり、50%の確率で猫が死ぬ、とは認識出来るのである。それは、脳内での相互作用である、ということは、そういう「事象」は、確かに(?)存在しているのだ。

物理的な相互作用が全くなければ、お互いの情報は隔絶されている。全く別世界に住むのと同然だ。しかし、人は猫が箱に入っていることは知っているし、その装置がどういうモノかも知っている。そうした得られる限りの情報から、ある可能性は導ける。このあたりが、量子論、また、量子力学を一般に分かりにくくしている考え方なのだろうと思う。結局、人間は人間の認識できる範囲で、そこにあるだろう事象を議論するしかない、という、ある意味割り切った考え方なら、その認識さえ事象の一つに過ぎないのだから、論理的事象(確率的にあるないを語る)も、計算に合うのであれば認めようということである。

2014年3月

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