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通勤電車を降り、改札を抜け、いつもの路地を曲がり、いつもの会社へ行く。この生活が変わらず続く。さてさて、自分はそれで一体何をしたいのか、などと思ってみたりする。自分がそうして会社へ行って、いつもの仕事をこなすことにどれだけの意味があるのか?

会社へ行けば、自分を必要とする人たちがいる。仕事の内容によっては、自分一人欠けても大きな損害となる。そこで自分という存在は、大いに意味のあ る存在となる。仕事はあるし、それをすることで、日々の生活費を稼ぐことに繋がる。というか、むしろ生活費を稼ぐために仕事をしているという分の方が大き い。自分を必要とする仕事場というのは、その手段の一つでしかない、とも考えられる。

自分の存在する意味。生きる意味。そんなものは、結局、自分の中で自分の現在の位置をランク付けするというもので、万人にその意味が通じるものでは ない。意味など、そもそも人それぞれの価値観によって変わってくるもので、他人にどう評価されようが、自分がそう思えばそれで満足のできるものとして良い のだろう。絶対的な意味、それこそ宇宙に於ける自分の存在の意味など、あるようでない。

ただ、やはりそこに存在するからには、何か宇宙的な意味もあるのだろうなぁ、と考える。私たちの体が、極微の素粒子からなっていて、その素粒子一つ 一つが自分という生体に置いてある意味を占めているように。でも、そんな素粒子の意味など私たちが理解するに及ばず、ましてや素粒子が私たちを成立させよ うと働いているわけでもあるまい。つまるところ、自分が存在して、そこでどんな挙動をとるか、といった現時点での事実のみがあるに過ぎない。

この荒んだ世の中において自分の生きている意味がない、などと感じる輩も多い。それを見つけようと宗教に入信したり、絶望に暮れて自殺に走る御仁も 多々。意味など、その時その場に応じて付加されるもの。最初から生きる意味を持っている人などいない、と、私などは思う。なければ自分でつくれば良い。

成人の日。今年からハッピーマンデーとやらで月曜に回って3連休となった。街に出てみると、そこかしこに晴れ着姿の女性や、ぎこちないスーツ姿の若者の姿を見る。おそらく成人式の帰り、久々に会った同級生を懐かしむ一時...

私にも成人式はあったのだが、かつて慣れ親しんだ人に会うと、確かに自分は過去に存在していたのだな、と思うことができる。私も相手を知っている し、相手も私を知っている。「変わったね」などといってくれる人もいるが、それは昔の私を知っていて出てくる言葉である。そう、自分は他人によって認識さ れていて、これは今も昔も変わらない。とすれば、当然今の私を知っている人で、仮に10年も会わなかった後に再会すれば、私を懐かしいと思ってくれるのだ ろうか。

懐かしい、という概念は、私たちが時間を連続して認識している証拠でもある。つまり、過去のみ記憶していくという私たちの脳の構造が、「懐かしい」 という概念を成立させている。もし、ディジタルに自由に時間を前後できたりすれば、私たちはいつの時代も対等に認識するのだろう。遠い過去ほど懐かしいと 感じる。そしていつしかその記憶も存在しない時間がある。私たちには始まりがあって、そこから記憶が積み重なって今に至っているということだ。始まりより 以前もまた、私たちは懐かしむことはできない。

偶然にして私たちは始まり、私たちの時間を過ごす。その時間を共有して存在している家族や友人。これらの巡り合わせは最初から決まっていたものでは ない。ほんの偶然である。そうでない可能性、つまり私が今ここに存在しない可能性もあり得たのだが、偶然にして同じ時を過ごすことになった私の取りまきと その関係。仏教の考え方で、人と人が出会うのは、その人同士に「縁」というものがあるからだとされている。

数年前、私の成人式の講演で、「縁」を大切にしよう、という内容の話があった。これはおそらく、出会った友人を大切にしよう、ということで、「縁」 そのものは私たちの考えでどうにかできるものではない。むしろ、「縁」によって操作されているのは私たちの方ではないか、とも思えるが。

20世紀の人類が生んだ思想に、「シュールリアリズム」という主義がある。超現実主義。人類は、現実を超えたところにもう一つの現実を見ようとしたわけだが、今世紀の科学は、まさに現実を超えた現実を作り上げた。百年前、誰があの月へ現実に行けると考えただろうか?

人は、現実を見ようとするあまり、本当の現実に盲目になるということが往々にしてある。そんなことが、現実にあるはずがない。そう疑うのは、人間の 心理として理解できるが、それ以降考えないというのは発展的でない。現代科学を作り上げたとされる科学者の多くは、既成の現実を見るのではなく、新たな可 能性を探求する能力に優れていた、ということができるだろう。つまり、知識が豊富というだけでなく、考える力も豊かだったのだ。

相対論で有名なアルバート・アインシュタイン。彼もそれまでの物理学の観念を一新した学者であるが、彼でさえ、既成観念に捕らわれた考え方をしてい たことがある。彼自身、生涯最大の失敗と認める宇宙項の付加。彼が導いた一般相対論の式は宇宙が膨張していることを示していたが、アインシュタインは、宇 宙が膨張するはずがない、と考えて、宇宙を静止させる為の宇宙項を付けた。しかし、後にエドウィン・ハッブルの観測によって、宇宙は現実に膨張しているこ とが明らかとなる。

重要なのは、現実を現実として見つめるということ。つまり、自分の中にある常識で現実を固定してしまわないで、新たな情報のインプットは常に受け容 れて思考する、という姿勢なのだろう。人類は万能ではない。少なくとも現在において、宇宙の全てを把握し理解しているわけではないのだ。現実は、新たな真 実が見つかる度に更新され変貌していく流動的なもの。いわゆる定説など、人類にはあり得ない。

さて、いよいよ1999年も終わり、いよいよ地球最後の年、などと騒ぎながら幕を開けたのは、ついこの間のことのように思える。とりあえず、まだ人 類は滅んではいないが、それでもあまり気分の良い年ではなかった気もする。国内において今年最大のニュースとされたのは、あの東海村臨界事故である。そし て、奇しくも世界で今年最大のニュースと認められたのも東海村臨界事故だ。あの事故の第一報を受けたときの政府担当者は「そんなことがあるはずがない」と 考えたという。そして、あの対応の遅れである。どうも人間というのは、現実を現実と認めるのに時間がかかるらしい。

今やコンピュータ全盛期、主婦が家計簿をつけたり、女子高生が電子メールを交換したりと、ビジネスだけでなく家庭にも広く浸透している。うちの母親 もつい最近表計算のソフトを使ったパートの仕事を始めた。一番縁のないと思っていた人までもそれを使う時代‥‥。新聞に次のような言葉があった。

「ヒトは体の外に脳を持つようになった」

この電脳社会の基礎を作ったのは、実は、核兵器開発だった。戦時中、米ロスアラモス研究所では、各分野のプロフェッショナルが集められ核兵器開発が 行われていた。爆弾の設計段階で、核物質を最も効率良く爆発させるための圧縮火薬の配置、爆弾の規模と破壊力の程度、爆発の高度とそのときの効果、などの 計算を行わなければならなかったが、それらは人の頭でやるにはあまりに膨大な計算量だった。そこで機械による計算をするわけだが、当時の計算機というのは 電気機械式で、スイッチのオンオフをリレーでカチカチと切り替えていたという。この処理速度というのはあまりに遅く、もっと効率の良い計算機の開発が望ま れていた。そこで、このオンオフの切り替えを真空管で電子的に行う「コンピュータ」が考案された。

現在、多くのコンピュータに採用されている方式は「ノイマン型」というものである。この大きな特徴は「プログラム内蔵方式」だ。私たちの使っている パソコンはソフトをインストールすればそのまま使える。しかし、登場当時のコンピュータは使用目的が変わる度に配線を繋ぎ変えなくてはならず、準備に数日 かかるということも珍しくなかった。フォン・ノイマンがこの形式を考案した背景にも、水爆開発があった。

文明は戦争と共にあり。これは人類発祥以来、ずっと続いている伝統であるともいえる。そもそも、今現在地球上に君臨している生物というのは、それ以 外の存在を足蹴にしてのし上がった子孫なのだ。おそらく、その中で一番大きな顔をしている人間は、地球上で最も野蛮な生物である、ということもできるだろ う。

オッペンハイマーやアインシュタインなど、核開発に関わった科学者の多くは、それを作ってしまったことを生涯悔やんだという。しかし、ノイマンは 違った。彼の日本への核攻撃を考える際のメモに、京都に落とすことは心理的効果あり、と記されていたそうだ。戦後も、ソ連への先制核攻撃さえ考えていたと いう。ロスアラモス研究所の同僚ベーテ博士は、ノイマンのことを「彼は倫理ということを理解していなかった」という。しかし、良い悪いは別にして、もしそ うした攻撃的な精神がなければ、今の人類はなかった、ともいえる。

最近、生命科学の急速な進展によって、人の体をあらゆる方向から操作できるようになっている。試験管ベビーに始まり、臓器移植、遺伝子治療、遺伝子 改造、そしてクローン、生体(臓器)培養まで進展しようとしている。これらの技術は、確実に人の役に立つ技術だ。しかし、その是非はまだまだ議論されなけ ればならない。

しかし、「役に立つ」のに、なぜ議論するのか。これら列挙したうち「臓器移植」に関しては、幸せになる者がいる一方で、悲しむ者もいるという点で性 質が異なるところがあるが、それ以外の技術に関しては、あくまでそれを使う本人の問題で、本人が幸せと感じるなら、それは「役に立つ」という話になるので はないか。

近年では、人体のあらゆる部位が、人工的に培養可能となり、それを商品化して売るというビジネスも成立しつつある。これが軌道に乗れば、工場で人体 の各部品が自動生産されていくのだろう。実際、米ATS社では、培養皮膚、培養軟骨の開発に着手している。人体の部品もオートメーションで生産されれば、 今より安い治療費ですむことになるが、それで割り切ることのできない人もやはり多い。

問題となっているのは、人を人の手で作る、というところになるのだろう。後から作り替え可能となれば、人は劣った部分を次々と修正しようとする。あ らゆる病気が減る一方で、人間としての個性も消えていくという将来が予想される。もともと自然は、全て均一化しようという大きな流れがあるが、人もそうな るのが運命なのだろうか‥‥。

「役に立つ」という言葉。人が幸せになることに貢献できれば「役に立つ」といえるのであれば、人が均一化することに貢献することも「役に立つ」とい えるのか。逆に、倫理を唱えて生命の操作に異議を訴えることに意味はあるのか。それは「役に立たない」ということにはならないか。重要なのは、それをして はならない、という、人としての「心」があるという事実だ。それは「役に立つ」という方向のみではない、人としての在り方を問う根本的な議論が内在してい ると思う。

最近はロボットブーム。ホンダのP3が鮮やかな二足歩行で人々を驚愕させ、ソニーのAIBO(犬型ペットロボット)は、本物の犬のごとく多様な感情 表現を見せたと思ったら、次は、NECが、人の言葉を認識してお手伝いをする、というロボットを開発していることを、先月明らかにした。何でも、2001 年には発売の予定とか。

そのロボット、「R100」と仮称されているらしい。移動方法は車輪というのは従来通りだが、そいつに声をかけると、その人の顔を判断し「おはよう XXさん」などと返事をしてくれるという。この顔の識別だが、大体十人くらいまでは可能とか。音声を認識し、画像を認識し、人に代わって家電製品などの操 作もこなす。音声認識というのは、単に音を音波として入力されるのではなく、それを言葉として認識するということ。同様に、画像を認識するというのは、単 にビデオカメラで映像を撮っているのではなく、その映像の対象が何であるかパターン認識をするということ。単なるカメラやマイクではなく、人の目と耳を 持っているのである。なんと、このR100は、パソコンの操作までこなすような開発がされているとか。

さて、ロボットもここまでくると、いよいよ「鉄腕アトム」や「ドラえもん」などの実現も意識されてくる。一家に一台ドラえもん。ロボットがいつまで も人の隣人として存在しているのであれば悪くない未来だ。しかし、こうしたロボットの進化を、ある懸念の目で見ている科学者もいる。このままいけば、いつ か、ロボットが人間に代わってこの世界を支配するのではないか、と。いや、何ともSFチック。しかし、数年前、IBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」 がチェスで名人を負かしたという前例もあるだけに、その可能性が全くないことはないのだろう。

人も、おそらく今後、遺伝子操作技術などの発達によって、生物としても今よりは優秀な種となることは予想される。ロボットは、今は人の隣人だが、も しかすると将来、ロボットと人間は、知的存在としての立場を争うライバル同士になるかもしれない。さてさて、ロボット三原則はいつまで守られるのだろうか‥‥。

科学がそうであるように、現在、医学も発展中だ。生物学分野での知識が集積し、医療分野の在り方も、以前とは大きく変わってきている。ただ、病院に よってその治療手法もまちまちになっている。例えば「心筋梗塞」の治療方法だが、ある病院ではバイパス手術ばかり、またある病院では血栓溶解剤投与ばかり と、病院による極端な偏りがある。また、それによる治療実績なども、患者側には公開されないというのも問題だ。

かつて、治療さえ受けられればそれで良かった時代もあった。こうした背景もありこれまで、医療方法そのものについては、さほど問われてこなかったの も現実だ。インフォームドコンセントが叫ばれている今、ようやく患者がその治療方法についても関心を向けられるようになってきたのか。

大学付属病院は、大抵一つの診療科でもいくつかの部屋に分かれている。その名前も第一内科とか第二外科とか、患者から見て実に分かりにくい。消化器 内科、呼吸器内科などとそのまま書いてくれれば、患者も自分が何処へ行くべきか分かろうというものなのに。実は、第一、第二などと振ってあるのは、研究室 の名前なのだ。だからその中身はある時期突然変わることもある。これそのものは問題とは感じられないかもしれないが、現場の管理体制が、患者側本位ではな く、医療側本位となっていることは分かるだろう。

また、治療と同時に、その病気の研究なども並行して行われている。これは、今後の医療の為にも必要なことではある。しかし、必要以上に採血したり、 下剤を使用してまで便を採取したり、あらゆる点滴(薬剤)が試されたりでは、患者は返って不安になり、治る病気も治らないというもの。

医療の発展のため、今の患者を通過点にするのは必ずしも悪ではない。ただ、最低でも患者にそれを知る権利はある。患者は皆、自分が病気である、とい うだけで、大きな不安に陥っている。自分がこれから受ける治療はどのようなものであるか、また、実施されている検査にどのような目的があるのか、医療側は そういったことを患者にも伝えるべきなのだ。患者は、それを判断して病院を選ぶこともできる。それこそが「インフォームドコンセント(十分な説明の上での 同意)」。

ただ、根本的に、どの治療方法が最適か、という標準が示されていないという問題がある。殆ど医師の経験や勘で治療方法が決まる為に、病院による治療 方法の偏りが現れるのであって、このあたりから見直しをはかるべきだろうとは思う。開発や産業界では品質保証の面でISO-9001などの導入が推進され ているが、医療にもこのような標準化はなされて良いのではないか。

新聞を読んでいると、他者としての自分、というフレーズに目が留まった。他者としての自分、はて、どういうことだろうか?自分は自分であって、自分から見て他者にはなり得ないはず‥‥。

よく、自分を大切にしよう、という説法を聞くが、それをあからさまにやられると他者としては、あまりいい気持ちはしない。それが、自分本位に映るか らだろう。しかし、やはり、自分は自分として、自分のために生きるのが常である。しかし、他者とも共存していかねばならないのが人生。

そもそも、自分を実感するとき、とは、どういうときだろうか。自分がそこにいるのだな、と確認できる。それは、他者によって自分の存在が確認された ときに実感できるのではないだろうか。人生とは、他者に如何に自分を見せていくかである、という考え方もある。つまり、自分という存在を他者に見せてなん ぼ、という思想だ。自分しか知らない自分は、つまり、他者にとって存在していない。

ここに、自分にも二重性があることに気づく。いわゆる他者にとっての自分と、自分にとっての自分だ。他者にとって自分は他者。この「他者としての自分」が世間における一般的な自分ということになるのだろう。

「何に対して自分が自分であるかという、その関係の相手方が、つねに自分を測る尺度となる」という、デンマークの思想家キェルケゴールの言葉が、同 時に紹介されていた。他者によって見られる自分が、世間での自分の評価。しかし、自分の中では、そうでない自分であって、かつ世間にも理解して貰いたい自 分もある。これを叶えようとして挫折した人は、世の中に少なくないはずだ。

ただ、自分の思うことがその通りに叶うことの方が少ない。何かしようとして、全て失敗もなくうまくいく、というのも、どうも嘘臭い。現実(リアリティ)とは、概してそういうものなのだろう。

さて、どうすることが、一番良い自分となることになるのか?少なくとも、自分に自分を偽るようなことはしたくはないと思うのだが‥‥。

もう一つ、面白いフレーズを見つけたので紹介しておく。

人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、
天使のマネをしようとすると獣になってしまう。

ブレーズ・パスカル

21日の昼下がり、佐渡島が沸き立った。一羽の鳥が誕生したのだが、この鳥というのが、タダの鳥ではない。今や純国内産はたった一羽となってしまっ た、国の特別天然記念物である「トキ」である。今回ふ化したのは、お隣中国から、今年一月に寄贈された二羽のつがい「友友(ヨウヨウ)」と「洋洋(ヤンヤ ン)」の間に産まれた卵であるが、国内では初となるトキの人工ふ化の成功とあり、地元、マスコミぐるみで大いに歓喜した。

絶滅といえば、最近、絶滅が懸念される生き物のレッドリストに、あの「メダカ」もエントリーしていると聞いたときは、さすがに驚いた。私は、田んぼ に囲まれた田舎で育っているので、メダカといえば、川を網でさらったら、真っ先に数十匹はかかる雑魚というイメージがある。そのメダカが、絶滅の危機と は!?

確かに、私が川さらいをしていたその場所も、最近は、がらりと環境が変わっている。田んぼは潰されてサッカー場になり、見渡せば土と緑だった実家の周囲も、今は区画整備が行われて、キレイな道路がはしっている。なるほど、メダカも住む場所がなくなるわけだ。

人間が住みやすくなるのはいいが、その脇で、住む場所を追いやられている生き物たちの心境とはどんなものか。今回のトキのように、一羽二羽になった ところで、ようやく保護の声が高くなるというのは、実にいたたまれない。それとも、開発、繁栄の影に絶滅があるのは、必然なのだろうか‥‥。

今も昔も、世の中で戦争のない日はない。考えてみれば、人類というのは、長年の生物の弱肉強食を生き残った末裔である。お互いの力を誇示し合うのは 頷けなくはないが、それにしても、闘争本能ばかりで生きるバカではないのだから、そろそろ理性を持った「人類」としての立場を自覚してもいい頃ではない か。

先日、北朝鮮のものと思われる不審な船が、日本の領海内に侵入してきた。海上保安庁の巡視船が拿捕の為に数隻出動、間もなく自衛隊の船まで参加、米 軍機までもがスクランブルする騒ぎとなった。結局、奴さんはまんまと逃げてしまったのだが、それより、たったこれだけのことでこの騒ぎ。しかも、初めての 臨戦態勢を体験した自衛隊員が「興奮した」と漏らす始末である。

どうも、戦争を待ちかねているようなこの風は、実にいただけない。某ニュースキャスターが「平和ボケ」は非難の対象であるか、というコメントをして いたが、私は「平和ボケ」が悪くいわれる理由はないと思う。極端な話、戦争を知らないのなら、いっそ最後まで知らなければいい。世の中、平和に越したこと はないのだから‥‥。

2014年3月

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